2010年04月04日

「依代」 宿るもの、憑依の謎

MANSAI◎解体新書 その拾六 『依代(よりしろ)』 〜宿りというポイエーシス(創造)〜

野村萬斎 x 杉本博司 x 中沢新一 (世田谷パブリックシアター)

yorishiro.jpg冒頭、萬斎による「三番叟」が演じられ、これに衝撃を受けた。狂言の演目をみるのはこれが初めてだったのだけれど、あの音楽(囃子)にみなぎる緊張感、それになにより萬斎氏の、それこそ神憑り的な舞いに圧倒されてしまった。

思うのだけれど、あの囃子は、ワールド・ミュージックやテクノ、エレクトロニカなどを通過している耳にこそ合うのではないだろうか。その響きからは古代的な香りと、同時に高度な洗練を感じとることができる。無機的にも感じられる鼓それぞれの音が、互いに響きあい、合いの手と絡みながら独特のグルーヴを生みだして、そのうねりの上を笛の音が走り、切り裂くのだ。そのグルーヴ、笛の音の横切る感じに背筋がぞくぞくしてしまった。

「三番叟」は、「揉之段」と「鈴之舞」の二種の舞により構成される。比較的「揉之段」が荒々しく、「鈴之舞」は静かに進む。この演目の意味は未だ解明されていないようなのだけれど、中沢新一さんによると、まず精霊を踏みしめて揉み、鈴の響きで再活性化させることにより舞台をならす意味合いがあるのだという。

舞の後は、「依代」をテーマにした鼎談。話しは、よくも悪くも杉本博司さんが終始リードされた。その中で、彼がこれまで写真で稼いだカネをつかって、狂言など、日本の伝統芸術再興のための仕事を進めるということ(能、狂言の新たな舞台装置を作ったり)、また、アート・アナーキズムと称して、カネを介さず、自分の作品と引き換えに新たな価値を手に入れ、それを先の仕事に活かすなど(そうすると税金を納める必要がない)、さすがNY帰り、自己主張の激しい美術家であるなあという印象を抱いた。

「三番叟」の舞はたしかに人間離れしていて、演者の身体に何かが憑依しているかのようにみえてしまうのだけれども、しかし踊り手本人にしてみると、その身のこなしは憑依というより、むしろ幼児期から身体に叩き込まれた稽古の賜物であって、その「神憑」と「訓練」のギャップに人間の意識の不思議、ある種の神秘を感じた。

*****

ダイジェスト版ではあるけれど、萬斎氏の三番叟、動画をみつけたのでリンクを張っておく(link)。
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2010年03月28日

「心の折形、結びかた」 結びを体感する

『折形講座(3) 心の折形、結びかた』 (くくのち学舎)

折形デザイン研究所代表・山口信博さんを迎えた講座の第三回。テーマは「むすぶ」

「むすぶ」という行為には古来より深い意味づけがなされていて、例えば男女の結びつきによって新たな命が生まれると、それが男の子であればムス子、女の子であればムス女と呼び、その呼称に結びの痕跡を残す。という掴みが冒頭にあって、少し前に見たヤブユム像(過去記事)のことや、生地屋のmusuburiさん(過去記事)のことなどを思い浮かべた。

結び方には、「結び切り」、「鮑結び」、ともうひとつ「花結び?」があり、それぞれ水引を使って実践した。最初は、ついていけなかったらどうしよう、という不安も少しあったのだけれど、それなりに結ぶことができ、まずまずのデビューを飾ることができた。で、最後に、研究所で用意された「内ろっかく」を折り、それでオリジナルの菓子「三かく四かく」を包んで結び、質疑応答を経て、講座を終えた。

西欧に土産を持参すると、ありがとうと言って相手がびりびり包装紙を破り捨てるのだけれど、そのとき、なんとなく心が傷つく。そのひそかな傷心を我ながら不思議に思うのだけれど、別にこれといって真心籠めてラッピングしているわけではないのに、なぜか胸に哀しみのような不思議な感覚がじわりと沁み入るのだ。そのとき、私はその包みになにをみているのだろう?

結びは、思いのほか楽しかった。結ぶと不思議な達成感があり、また結ぶ間は雑念が消えるので、よい心のリフレッシュにもなる。また結びたいと思った。これからも、機会があればまた包んだり、結んだりしたい。
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2010年02月07日

ふゆまつり

『くくのちふゆまつり』 (四谷ひろば講堂)

kukunochi.jpg現地に着いたのが午後三時過ぎ。ステージでは密やかに市が開かれ、その前ではエチオピアの記録映像が上映されていたと思う。

寒さをこらえながら会場をひと回りして、個人的にお会いしたかったwatarigarasu、気流舎のそれぞれと挨拶することができて、それだけでも収穫だった。watarigarasとの出会いは昨春の目黒川沿いで、桜を見にいった夜、彼の出店でワインを飲んで、その佇まいが印象的だったのでビラをもらい、その後も彼のウェブサイトをチェックしたりしながら、周囲に宣伝しながら、そしてこのふゆまつりに参加することが判明して驚き、不思議な縁を感じたのだ。気流舎は、ブログを初めて間もない頃に彼のブログを発見し、その頃はまだ店ができてなかったのだけれど、コメントをやりとりしたり、そして店ができて、でも店に入るきっかけがみつからず、そうしてふゆまつりで初対面できて、これも感慨深い。なんか、いろいろと繋がるものなのだなあ、と思う。

ほかにも、ソラノネ食堂のことを知ったり、米を買ったり、それになにより南山座の舞踏。踊りの中から映像の如きものが立ち上がり、なにか映画的というか、いや、どちらかというとやはり詩的というべきなのだろう、その技芸、踊りを堪能することができた。で、どさくさまぎれに参加した打ち上げでは、三上敏視さんのお話も聞けて、新聞の切り抜きも頂くことができて、以来、彼のブログをチェックしている。

つくづく、いろいろな動きがあるんだなあと思う。普段、それを知らないだけなのだ。気に留めないだけなのである。このふゆのまつり体験を、これからの豊かさに繋がるひとつのきっかけにできればと思う。
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『静かな叛乱 鴉と鯨の対話』 黒い機械と人間、その境界について

『レベッカ・ホルン展 − 静かな叛乱 鴉と鯨の対話』 (東京都現代美術館)

rebecca_horn.jpgこれといった予備知識もなく、『ラグジュアリー展』を観た流れでそのまま鑑賞したのだけれど、思いのほか楽しむことができた。

広い空間の中に、いくつかのインスタレーションが設えられている。色は、黒が目立つ。というか、黒ばかりだ。これは近代を象徴する色であり、同時に、死を意味する。そしてそれらの黒い装置にはそれぞれ機械が仕掛けてあり、その機械は規則的に、あるいは不意を打つように動いている。たとえば、天井から逆さに吊るされたグランドピアノが突如として動き出したり、細長いアームの先から塗料が噴き出し、自律的に壁面に絵のようなものを描いている。

このように、機械があたかも人間のように動いてみせるのだけれど、しかしその振る舞いそのものはあくまで無機的で、人間、というか生命体がみせる有機的な動きとはかけ離れている。あと、これはその後の映像作品でみたのだけれど、テーブルがよろよろ歩いたり、人が車椅子で移動したりと、人と機械の境界が曖昧にみえるショットが印象的なつかわれかたをしていて、おそらく、こうして機械が人間に見立てられたり、人間が機械に見立てられたりすることは、これらの作品群全体にとってなにか深い意味があるのだろう。

それで、その意味とは?なんて考えてみても、答えが明快に得られるわけじゃない。もしそれを理路整然とした言葉で言い表せるとしたら、なにもこうした複雑な仕掛けなど作る必要もないだろう。それよりも、オブジェクトの造形やそれぞれの配置のされ方、あるいは機械の精緻な動作など、意味を超えた領域で魅力を放つモノの存在そのものが大切なのだと感じた。
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2010年01月31日

「ラグジュアリー:ファッションの欲望」 これからの贅沢とはなにか

『ラグジュアリー:ファッションの欲望』 (東京都現代美術館)

社会の遷り変わりとともに変化する「贅沢」のあり方について。

luxury.jpg「贅沢」という価値の移り変わりが、モードの変遷というかたちで可視化される。中世の貴族がまとったクラシックなドレスから、ブルジョアや現代の「セレブ」が好むモダンなドレスに至るまで、その贅沢の質の変化が、衣服のシルエット、ディテールの素材やかたちなどに反映されており、その変化を肉眼で辿ることができた。

おそらく、贅沢とは希少なものの過剰な消費である、とかつての貴族は考えたのだろう。当時の服飾には、異国で採られた宝石や貴金属、生地がふんだんにつかわれ、それらが特別な技術を持つ職人の手により複雑に編み込まれて、緻密できらびやかな衣服をかたちづくっている。その後、近・現代まで時代が下ると、華美な装飾より機能性を求める傾向が強くなり、身体に負担をかける過剰な装飾は削ぎ落とされ、闊達さ、安楽さが新たな贅沢の要素となる。そして今、この社会における贅沢のあり方は大きく揺らいでいる。

遷りゆく贅沢の価値。では、これからの贅沢とは何か、という問いが本展の大きなテーマだったのだと思う。最後はコム・デ・ギャルソンのアーカイヴとマルタン・マルジェラのラベルナンバー「0」(過去記事)で締めくくられていたのだけれど、私的にはやはり、さらにその先にある、たとえば『musuburiの布と10年1着』(過去記事)のような古くて新しいタイプの小さな贅沢が脳裏をよぎる。大量消費型のビジネスモデルから解脱し、究極の「一点もの」を極私的なレベルで実現する試み。たぶん、同じような営みはそれ以外にもこまごまとあるのだろう。今、彼女たちは既存の流通システムによらず、アートギャラリーなどをつかってダイレクトに消費者と繋がりを持ちながら新たな価値を興している。この動きが互いにつながりあい、新たな波となって、さらなるうねりを創造することを密かに期待している。
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2010年01月30日

「musuburi x 10年1着」 贅沢であること

『musuburiの布と10年1着』 (森岡書店)

musuburi_10nen1chaku.jpgムスブリは個人で営まれているオリジナルの生地屋さんで、手で機を織ってサンプルをつくり、それをベースに量産して、卸したり、個人に切り売りしたり、ユニークな活動をなさっている。生地は、泥染め、草木染め、竹炭染めなど、こだわりの天然染色。

10年1着は、10年着つづけられる特別ではない特別な服、をコンセプトに、カスタム・オーダーを受けたり、既製服をウェブ販売したり、こちらも個人で商売をなさっている。ウェブでそのアーカイヴを眺めるとそれぞれに小さな物語が籠められていて、読んでいるうちにその世界に引き込まれてゆく。

このイヴェントは、ムスブリの生地をつかって10年1着で服を作る、というたいへん贅沢な企画で、店内に並べられた生地をみているだけで、大興奮。それから生地を選んで、どんな服を作りたいか相談を進めるのだけれども、こうした面白い試みが、いわゆる「業界」ではなく、その外部であるはずの「書店」で行われているところに複雑な想いを抱く。
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2010年01月27日

「聖地チベット」 結ばれる異性、その果てには

『聖地チベット』展 (上野の森美術館)

tibet.jpgチベットは中国の一部、という前提が強調された展覧会だったので、その政治色に少し違和感を覚えてしまったのだけれど、それを差し引いても、様々な種類の彫像、タンカ、装飾品の現物をみることができて、よい眼の保養になった。

多くのヤブユム像があった。方便(慈悲)の象徴である男尊(父)と、空の智慧(般若)の象徴である女尊(母)の交わりがかたちづくられているそれらの像には、首にいくつもの頭をつけ、肩から無数の手を伸ばしているものもあって、そのどれもが黄金色にきらきらして眩かった。厳かでありながらきらびやかな、そして淫靡な神々の姿。解説によると、それらの合一像にはある種の永遠性が籠められているといい、その無数の頭と手は、苦しむ人々を救うためにあるのだという。

そして驚くほど多くの神々が、髑髏のついた冠、首飾りを身につけ、あるいは髑髏の杖を持ち、鋭く邪鬼に睨みを利かせていて、それが不思議なことに、その髑髏の不気味さが神々の聖性をさらに際立たせているように感じられた。ここで髑髏は不浄の象徴とされていて、つまり、これら無数の髑髏を通して、悟りのためには不浄のものが必要である、という仏教の奥深さが表されているらしいのだけれど、しかしなぜだろう、この髑髏の装飾にはまだ深い謎が隠されているように思えてしまう。髑髏とはなにか。なぜ、髑髏を身につけるのだろうか。

仏性とは、なんて複雑で多義的な成り立ちをしているのだろう。かたちづくられる神仏の風貌やその姿勢、あるいは身体の前で結ばれた印など、それらの意味を想像すると果てしがない。無限にイメージが膨らんでゆく。
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2010年01月10日

「最後に見た風景」 屍とエロス、モードとのつながり

伊島薫 写真展 『最後に見た風景 - Landscapes with a Corpse』 (BLD Gallery)

izima_kaoru00.jpg不思議なもので、被写体が死体を演じているというだけなのに、モード写真が持つ艶かしさがさらに際立ってみえてくる。

最新のモードを身につけ、床に、路上に、あるいは草原の上に横たわる女たち。眼は見開かれているけれど、その瞳は虚ろ。やはり、この生気のない瞳がよいのだろう。あと、だらりと弛緩した肢体。魂の抜けた肉体に宿る悪魔的な魅力。モノである人形にはどこか得体の知れない恐さが感じられるけれど、その恐さが生身の肉体の上に宿っている、という印象。人形と人間の中間を漂う擬似死体という魔物とエロス、そしてモード。それらになにかしらの繋がりはあるのだろうか。

「連続女優殺人事件」という連載があったことは、なんとなく憶えている。そのうちいくつかの作品は、当時、立ち読みで見た。とまあ、当時はそれほど熱心なわけでもなかったのだけれど、今こうして眺め直してみると、素直によい企画だと思える。モードとエロス、その繋がりについて想像を膨らませてみたい。
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2009年11月14日

「アロイーズ展」 無垢の楽園、虚しき官能と死

『アロイーズ展』 (ワタリウム美術館)

アロイーズは31歳で精神を患い、その後の46年間を病院内で過ごす。

aloise.jpg静かな盛り上がりをみせるアウトサイダー・アート。あらゆる創造の領域が経済に食い荒らされているこの世界で、真に創造的な芸術を探し求めようとするとここに行き着くのかもしれない。

統合失調症(精神分裂症)を患ったアロイーズは、以後、78歳で亡くなるまで入院生活を強いられる。そこで彼女は、誰に勧められるでもなく絵を描き続けた。最初は包装紙の裏などをつかって描いていたが、彼女の作品に注目する医者、学者などがあらわれ始めると、創作のためにノートや色鉛筆などが与えられるようになり、アロイーズは創作の幅を広げてゆく。

彼女の作品群を眺める中でいろいろなことを感じたけれど、もう細かいことは憶えていない。ただ、いまも印象に残るのは、ピンクや淡いブルーを配置した温かな色づかいと、男女が交わす抱擁や接吻、そして青く塗りつぶされ表情を奪われた架空の人々の姿で、そこに彼女が死ぬまで想い続けたであろう楽園のきらびやかさと切なさを感じた。

晩年。アロイーズの作品に対する評価が高まるにつれ、周囲の期待も増し、作業療法士が付き添い彼女に助言を与えるようになる。すると彼女は衰弱しはじめ、翌年、ついにこの世を去ってしまった。この人生の結末には創造の儚さが凝縮されているように思えるけれど、わたしは彼女の生涯から、作品から、アウトサイダー・アートから何を学ぶことができるのだろう。
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2009年10月18日

「ゴーギャン展」 内なる野生、楽園と孤独、死

『ゴーギャン展』 (東京国立近代美術館)

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

gauguin.jpg彼のアマチュア時代から最晩年期に至るまでの作品群をほぼ時系列に眺めた。そしてその作品群の流れとともに、株式仲買人として裕福な生活を送っていた彼が、株式相場の大暴落をきっかけに画家となり、やがて近代に背を向け南を目指し、孤島に漂着して、その地で果てるまでの半生をおおまかに追うことができた。

強く印象に残った色彩は朱と緑のコントラスト。この二色の組み合わせから思い出したのは阿修羅像(過去記事)で、古代的といえばいいのだろうか、この色合いの意味について想いを巡らせてみたり。また、近代社会に対する嫌悪から未開の地をある種の楽園と見立てていた彼が、彼の地とキリスト教の寓話を重ねて描くことの意味、あるいは限界のことなどを思った。

たしかに、人間は野蛮な生き物だと思う。日々の暮らしの中でもそれを痛感する。たとえば孕ませた女を置き去りにし、そのまま棄てるのも人間の抱える野蛮の一部なのかもしれないけれど、そうした男のエゴと、近代帝国主義と、生と死と、世俗まみれの情事から高次の思想に至るまで、その混沌を原動力に情熱と失意の反復の中を生きたのがゴーギャンだったのかもしれない。いったい彼はなにを思いながら絵筆をとり、死んでいったのだろう。南の楽園で最期を迎えた彼は、幸福だったのか、あるいは不幸だったのだろうか。彼が見出せなかったなにかを、我々はみつけることができるのだろうか。
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2009年08月16日

「美というもの」 偶発の美、心の野生を解き放つ

『瀧口修造の光跡 T ‐美というもの』 (森岡書店)

水彩、デカルコマニーなど瀧口修造の作品群、約30点を展示。

takiguchi_shuzo.jpgウェブサイトに掲載されていたデカルコマニーに魅せられ、このイヴェントに足を運んだ。会場は、書店というより半ばギャラリーのような雰囲気で、決して広くはないけれど簡素で居心地のよい空間だった。室内の壁には瀧口修造作の水彩、デカルコマニーなどが掛けられていて、テーブルには関連書物が並んでいた。

最初は、展示されている画がどのように作られたのかよく解っていなかったのだけれど、それがデカルコマニーであることを知り、デカルコマニー?ってネットで調べて、なるほどそうかと了解した。デカルコマニーの魅力は、画があたかも自律的に運動しているように感じられる、というか実際そうなのだけれど、その湧き立つ感じがよいのだろう。瀧口修造のようなシュールレアリストは、この偶発の色彩を人間の無意識と繋げ、芸術の領域に押し上げようとしたのだと思う。瀧口修造の詩作にオートマティスムがつかわれたのも、これと同じ理由によるのだろう。

後日、詩の朗読会にも参加した。朗読会は初めての経験だったので、立ち振る舞い方がわからず、というかあくまでも聞き手なのでなにもしないでよいのだけれど、聴くときの態度など周囲の人たちの様子を眺めたりで集中力に欠いた。かといって、目を閉じることもできなかった。あと、詩を読む人というと、私の乏しいイメージとして、パティ・スミスであるとかニック・ケイヴあたりが思い浮かぶのだけれども、朗読家の岡安さんの声はそれとはまったく違っていてとても上品なトーンだった。

瀧口修造の時代に較べると、現在の精神分析、脳科学は相当に進歩しているのではないかと思う。とくに人間の無意識の捉え方などはこの十数年で大きく変化したのではないだろうか。という意味で、現在の脳科学に根ざした新たなシュールレアリズムが生まれるとしたら、それはどのようなアプローチをとるのか、みたいなことに興味を持った。芸術にとって、人間の無意識はいまでも大きなテーマであるはずだ思う。
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2009年08月08日

「阿修羅展」 三面六臂の謎、生命力と憤怒

『国宝 阿修羅展』 (東京国立博物館)

ashura04.jpgまず最初に、中金堂基壇に埋納されていたという、金、銀、真珠、水晶、琥珀、瑠璃、瑪瑙などの七宝、そして銅鏡、刀剣、銀鋺、水晶玉などが展示されていて、その様々な種類の鎮壇具を眺めているうちに、先日の『阿修羅のジュエリー』(過去記事)の記憶が重なり、宝玉たちが脳内で色とりどりに輝きだした。この展覧会をきっかけに、くすんで地味な色合いだった平城京のイメージが、きらきらしい派手な色彩に変わった。

娯楽性の高い楽しい展覧会だった。並べられている仏像はどれも迫力があり、同時に深い味わいを醸し出してもいて、とても魅力的にみえた。本展の主役である阿修羅像はもちろんそうなのだけれども、鎌倉時代につくられたという四天王にも阿修羅像とは性格のまったく異なる凄みがあり、その荒々しさに圧倒された。また、仏像そのものが持つ生命力だけではなく、ディスプレイの方法ひとつでこうも空間の雰囲気が変わるものなのか、と感心させられた。

しかし、なぜ阿修羅は釈迦に帰依するようになったのだろう。インドでは鬼神であった阿修羅が、いつのまにか、どこかしらで改心して、あのように穏やかな涼しげな顔をして佇んでいる。しかも意外に派手な格好をしており、そのうえステージ上でスポットライトを浴びたりしてそれがまたよく似合っているのである。こんなことになるなんて、阿修羅自身もあの頃には予想してなかったのではないかと思う。生命の力、光、炎、怒り。それぞれは繋がり合いながらこの世の成り立ちを複雑怪奇に保っているのだけれど、しかし阿修羅の顔は涼しげ、娑婆に無数の修羅場を置き去りにして。
posted by Ken-U at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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