2007年06月04日

Marlene Dumas - Broken White -

『マルレーネ・デュマス ― ブロークン・ホワイト』 (東京都現代美術館)

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「Stern, 2004」

マルレーネ・デュマスの回顧展。展示されている作品のほとんどは人物を描いたものなのだが、キャンバス上に映し出された人々は皆、輪郭が滲み、歪んでいて、肌も青白く、あるいは赤黒くただれてみえるために、それらが生きている人物なのか、それとも屍体なのか、そのどちらを描いたものなのかが判然としない。その曖昧さは、観る者の心を宙吊りにしてしまい、ある種の居心地の悪さと、別の意味での心地よさを同時に感じさせる。

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「Waiting (for meaning), 1988」

これらの作品群を眺めながら、"Broken White"というこの展覧会のタイトルについて漠然と考えをめぐらせていると、この"White"とは、人体の表面を覆う皮膚のことではないかと思えてくる。何故なら、描かれている人物が皆、皮膚を引き剥がされ、その下に隠れていた肉を露わにするような姿をしているからだ。そしてその背後からは、暴力の匂いが漂ってくる。あるいは、"White"とは、この社会の表層に張られた巨大なスクリーンであるようにも感じられる。デュマスは、この虚像を映し出すスクリーンを破壊し、その背後に隠されている人間本来の姿を描こうとしているのかもしれない。描かれる人物の姿かたちが日常で目にする人間のものとかけ離れているのは、それでもその奇妙な肉体からリアリティーを超えた強烈な生々しさを感じてしまうのは、キャンバスに描かれた人間の身体が裸である以上に裸にされているためなのではないだろうか。

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「Death of the Author, 2003」

鑑賞にそれほど時間がかからない比較的小規模な展覧会だったのだが、濃密で刺激に満ちた素晴らしい時間を過ごすことができた。いい出会いだった。ぼくもこんな絵が描けたら、と思った。すっかり興奮してしまったので、久しぶりに図録を購入した。マルレーネ・デュマスの詩やインタビューも掲載されているので、目を通した後、なにかしらここに書き留めておこうと思う。
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2006年08月25日

エルネスト・ネトの個展

『エルネスト・ネト - ERNESTO NETO』 / 小山登美夫ギャラリー

ernesto_neto00.jpg天井からだらりと吊るされた淡いピンクの物体。近づいてみると、ストッキングのような繊維の中に粒状の発泡スチロールが詰められていて、触ると軽くてじょりじょりとした弾力がある。そしてぶらぶらと揺れる。その垂れたかたちがなにかの臓物のような、あるいは萎えた陰嚢のような、得体の知れなさはあるけれど、どことなく滑稽なところもあって、それがなんだか妙に心地いい。

それから靴を脱ぎ、別室に入ると、その床にはとても柔らかいマットが敷きつめられいて、その上にはまたもや得体の知れないモノたちが幾つもころがっている。いや、ころがるというよりも、ふわふわとしたモノがぺたりとへばりついていたり、だらりと横たわっている。いくつかのモノは脱力した人形のようにもみえる。あるいは腸の切れっぱしというか、巨大ミミズか伸び過ぎたペニスのようなかちをしているモノもある。その長いモノがぎりぎりで通るくらいのドーナツ状のなにかが寝そべっていたりもする。

そこに座り込んだぼくは、友人の息子(1歳2ヶ月)がいくつものオモチャで遊んでいる時のことを思い出した。というか、一瞬、おもちゃと戯れる時の彼と同じような欲望が湧き出てくるような気がした。ふと視線を上げると、天井に張られた幕がゆるやかなカーブを描いている。部屋中に漂うポプリの香りはとても心地よく、そしてどこかしら懐かしくもあった。
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2006年08月16日

「ペルシャ文明展」 王権をめぐる創造物を眺めて

『ペルシャ文明展 〜煌めく7000年の至宝』 / 東京都美術館

persepois00.jpgペルシャの土地は乾燥した高地(イラン高原)に位置し、農業には適さなかったため、古代ペルシャ人は牧畜と狩猟を主な生業としていた。また、青銅や銀などの豊富な鉱山資源を利用し、肥沃な土地を持つメソポタミアとの交易によって農作物を補った。交易は友好的に行われる場合もあったが、資源を奪い合う戦争に発展することも多かった。

紀元前550年頃、メディア人とペルシア人の混血であるアンシャン王キュロスがメソポタミアの新バビロニア王国を滅ぼし、古代ペルシャ帝国を築く。その際、王位に就くダレイオス1世は、首都ペルセポリスを造営し、帝国をエーゲ海からインダス河にまで及ぶ巨大な国家に築き上げる。その後、マケドニア王国のアレクサンドロス大王の侵略によってダレイオスは滅ぼされるが、これによってギリシャとオリエントの両文化が融合し、ヘレニズム文化を生み出すきっかけとなる。

*****

新石器時代につくられた土器、円筒印章、帝国時代の定礎碑文、装飾品、彫像、剣、貨幣など、展示品目は約200点に及ぶ。とても規模の大きな展覧会だった。

先史時代の土器には、天と地を繋ぐための生贄、つまり家畜(あるいは境界領域に棲む両義的な動物)であったと思われるこぶ牛や蛇の姿が描かれているものや、器そのものがこぶ牛や山羊の姿を模して作られているものなどが数多くみられた。当時の土器や装飾品にしばしば使われるラピスラズリの青色も、空や水などの神の領域を象徴すると考えられていたようだ。また、鉱山資源が豊富であったためか、短剣や槍、闘斧などの武器も豊富で、おそらくそれらが後の帝国支配に繋がったのだろうと思われる。

その後の帝国時代の出土品も充実していた。ペルシャ帝国が誕生すると、その中心となる巨大な都市(ペルセポリス)が築き上げられ、信仰が多神教から一神教(ゾロアスター教)に変わり、その王権を正当化するための碑文、さらにはその威厳を高めるための彫像、装飾品などが数多く制作された。古代ペルシャではライオンが超自然的な存在であると考えられていたらしく、王がライオンと戦い、それを槍や矢で射る様子が描かれているものが目立つ。さらに、帝国では貨幣が鋳造され、その表面に王の肖像が刻まれたのだが、それらも時系列に数多く展示されており、会場の壁面には貨幣の表面を拡大した映像が映し出されていた。

*****

数多くの展示品を通して、先史時代から帝国誕生までのペルシャの変遷をバランスよく眺めることができた。帝国をめぐる様々な出土品をみていて、中沢新一『熊から王へ』(過去記事)や、BBC芸術のわなシリーズ『権力が生み出す虚像』(過去記事)などを思い起こした。王権とともに生み出された原初の兵器、文字、貨幣などを実際に眺めることで、その時代の空気を間接的に感じとることができたような気がした。
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2006年08月07日

その図版の一部

バタイユの『エロスの涙』(過去記事)に掲載されている図版の一部を、ここに貼り付けておく。

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鳥の顔をした男。ラスコーの洞窟の竪坑の壁画の部分。
紀元前13500年頃。


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ティエリー[ディーリック]・バウツ(1400-1475)『地獄』(部分)
ルーブル美術館


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フランシス・ベイコン[1909年生まれ]『室内』
ロンドン、ハノーヴァー画廊


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極めて人間的なエロティシズムの本質が禁止の侵犯であるとするならば、職人によるモノづくりの場面を目の当たりにしたり、何かピンとくることを思いついたりかたちにしたりといった、つまり、隔てられた世界の境界を横断するその瞬間に感じることのできる快楽も、日常の中のささやかなエロティシズムによるものだと考えられるんじゃないだろうか。
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2006年07月30日

「Woman of Many Faces」 曖昧であり複雑な、ある視線について

イザベル・ユペール展 「Woman of Many Faces」 / 東京都写真美術館

isabelle_huppert03.jpg恵比寿。29日(土)曇り。この世界は蒸し風呂のようだ。映画を観たついでに、写真美術館にぶらりと立ち寄った。72人のカメラマンが撮影した、フランスの女優イザベル・ユペールのポートレートで構成された写真展である。

80年代半ば以降に撮影された作品を中心に、作家別、年代別などに整理されることなく、サイズも揃えられないまま、100枚以上にわたるポートレートが展示されていて、その不揃いなディスプレイのおかげで、飽きずに、会場内をぐるぐるとしながら鑑賞することができた。あらゆる姿をしたイザベル・ユペールを眺めながら、この人はつくづく眼差しの人だなあ、と思った。それも、年代によって変化しているように感じられる。90年代までは、視線が直線的で鋭いのだけど、2000年を過ぎた頃から、柔らかくなるというか、少し虚ろになるというか、その視線に、曖昧さ、あるいは複雑さが滲み出るようになって、そのあたりから彼女の魅力が増して感じられるようになる。

正直いうと、唇の薄い理知的な感じの人はあまり得意ではないけれど、イザベル・ユペールは私的タイプを超えて魅力的である。それに、堂々と歳を重ねていく姿勢がジャンヌ・モローなどとも重なり、その女っぷりのよさに好感が持てる。『ハッカビーズ』と『8人の女たち』を観ておくべきだったかもなあ、と少し後悔した。ちなみに、左上の画像はアンリ・カルティエ=ブレッソン(過去記事)撮影のものである。
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2006年07月27日

25時 shinjuku, 1973

森山大道展『25時 shinjuku, 1973』/タカ・イシイギャラリー

1973年、街のプロモーションの一環として、新宿区が森山大道に制作を依頼して撮影された8mmビデオ作品。(時間:17分)

daido_moriyama_shinjuku25_00.jpgなるほど区からボツにされただけあって、映像を見る限りは、そこが新宿なのかどこなのか判然としない。唸り続けるバイクのエンジン音と共に、延々と、ぼんやりとした闇が、その闇の中を揺らぐ滲んだ光の塊が、ただ現れては消えてゆくばかりである。カメラはどこにも向けられておらず、どこでもない場所を、フォーカスを合わせることもなく、ブレながら、ノイズを撒き散らしながら、レンズの先にある光と闇を無感動に記録し続けている。

「写真は既に存在するモノの映像を複写するものだから、芸術にはなり得ない」とは、ドキュメンタリー『≒森山大道』の中で語られていた、森山大道本人の言葉である。ただ、彼のこの言葉と、実際に生み出される彼の作品との間には、大きなギャップが感じられる。このビデオ作品も例外ではなく、他の作品と同様の印象を受ける。ぼくは、このギャップにとても興味を惹かれてしまう。おそらく、このギャップの中に、森山大道という写真家の秘密が隠されているのだろう。

*****

この作品は、『写真よさようなら』発表の翌年に制作されている。公式サイトに、”「写真よさようなら」の8ミリビデオ版”とあるように、この両作品の間には何か通じるものがあるのだと思う。そういわれてみると、スクリーンに映し出される映像から、ある種の終末のような雰囲気が漂っていた。全く関係はないけれど、この作品を眺めていて、北野武のバイク事故(あるいは自殺未遂)のことが思い浮かんだり。暗闇の先にある死の領域に向かって、バイクでゆらゆらと彷徨う。そんな小さな死の旅の欠片が、この作品の中に記録されているような気がした。
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2006年07月17日

「瞬間の記憶」 時空の微分法について

ハインツ・ビュートラー監督『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』。
英題『HENRI CARTIER-BRESSON: THE IMPASSIONED EYE』。

16日(日) 渋谷。

2004年8月、95歳でこの世を去った写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンを取材したドキュメンタリー作品。当時93歳であったカルティエ=ブレッソンとその周囲の人々が、彼の半生とその作品にまつわる想いをカメラの前で語っている。

henri_cartier_bresson00.jpg写真家は、4次元からなるこの時空を瞬時にして切り取り、2次元の平面の上に焼き付けてしまう。この4次元から2次元への時空の微分法について、カルティエ=ブレッソン自身が思うところを語っている。彼によると、写真における重要な要素は、被写体となる事物の配置とバランスであるという。ここでいうバランスとは、”理論”と”直感”など、目には見えないものを指している。写真における微分法には、言葉にすることが難しい要素が多々含まれているのだ。

その点については、少し意外なことに、カルティエ=ブレッソンの被写体であり、その作品の鑑賞者でもあるイザベル・ユペールがうまく言葉にしていたと思う。カルティエ=ブレッソンに次いで、彼女の言葉には響くものが多かった。曰く、優れた写真とは、目に見える事物そのものだけではなく、その過去や未来なども含めた背景や物語を感じさせるものであり、さらにいうと、音楽に近しくなるべきものである。撮影のプロセスには言葉では言い表すことのできない直感的な要素が多く含まれるが、そのプロセスによって生み出される作品には美しいフォルムが与えられる。それは演技におけるプロセスにもよく似ているという。つまりは、写真に限らず、芸術表現のコアの部分には、言葉では決して近づくことのできないある種の超越的な領域が保存されているということだろう。

*****

アンリ・カルティエ=ブレッソンの、穏やかな、そしてどこか人懐っこさを感じさせるその佇まいに、これも写真家の才能のうちなのだろうなあ、と感じ入ってしまった。その才能は、とくに人物のポートレートを撮影する局面で威力を発揮することだろう。彼が、被写体を"shoot"する瞬間を狙ったとしても、その被写体が彼に警戒心を抱くことは少ないのではないだろうか。例え警戒したとしても、おそらく、その緊張を維持することは難しいだろう。一瞬の間、気を緩めたその瞬間に、彼はすかさずシャッターを切ってしまう。その被写体との距離、タイミングの計り方が、きっと天才的なのだ。だからあのような写真が撮れてしまうのではないだろうか。

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このドキュメンタリーを眺めていたら、彼の写真集が欲しくなった。この作品がDVD化されたら、それも手に入れたい。あと、イザベル・ユペールがお気に入りリストに登録された。彼女はとても魅力的な人だ。
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2006年05月24日

五次元空間というワンダーランドへ

BS特集・未来への提言
『理論物理学者 リサ・ランドール 〜異次元を語る〜』

この世界の向こう側には五次元の空間が広がっている。ただ残念なことに、人類はこの異次元の世界を知覚することができない。だからその規模を観測することもできないのだ。しかし、確実に五次元の空間は存在している。我々が暮らすこの世界(三次元空間+時間)は高次元空間の一部分に過ぎないのだ。

lisa_randall02.jpg1999年、理論物理学者であるリサ・ランドール博士(ハーバード大)は、五次元空間の存在を示す方程式を導き出すことに成功し、世界の物理学者たちに大きな衝撃を与えた。彼女の理論は従来の宇宙に対する概念をも覆すものであったのだ。以来、その方程式は理論物理学の様々な論文に引用されているという。

彼女によると、五次元の空間がどのようなものなのか、それを口頭で説明することも、絵に描いてみせることも不可能だけれども、この世界を五次元だと仮定したときに、三次元空間はその中に垂らされた膜のようなものとしてイメージされるという。しかも、その膜(三次元空間)は並行して幾つも存在している。つまり、この宇宙と同じような空間が複数個存在しているのだ。さらに、その複数の宇宙間では重力エネルギーがやりとりされているのだという。彼女の話を聞いていると、五次元空間とは宇宙の曼荼羅(あるいはマトリックス)のようなものなのではないか、という気がしてくる。先日読んだ、『芸術人類学』(過去記事)の「マトリックスの論理学」を再読してそのイメージを絡めてみたくなった。

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リサ・ランドール博士がまだ少女の頃、『不思議の国のアリス』に夢中になったというエピソードが披露され、それがとても興味深く感じられた(ちょっとデキ過ぎな感もあるけど)。彼女はウサギではなく、数学の持つ魔力に導かれて宇宙の抜け穴に辿り着き、五次元空間というワンダーランドを冒険するようになったのだ(その冒険の内容を記した著書『WARPED PASSAGES』は邦訳される予定があるらしい)。

人類はこの宇宙の4%しか把握することができておらず、残りの96%はダーク・マター、ダーク・エネルギーと呼ばれ、未だその成り立ちが解明されてはいない(そのダーク・マター、ダーク・エネルギーが五次元空間そのものであるという説もあるようだ)。その超越的空間の仕組みを明らかにしようとする理論物理学者の姿は、脳の無意識の領域を解明しようとする脳科学者の姿ととてもよく似ている。人間の内的宇宙(脳の世界)にしろ、外側に広がる宇宙空間にしろ、その”向こう側”には超越的な何かが存在しており、その力が我々に大きな影響を与えているのかもしれない。そんな妄想がもやもやと湧き上がってしまう。

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来年には、五次元空間を間接的に観測するための実験も行われるという。その結果がどのようなものになるのか興味津々ではある。でも、またなにか善からぬ”副産物”が出てきたりはしないだろうか。それを考えると少し暗い気持ちにもなってしまう。科学は難しい問題をいろいろと抱えこんでいる。
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2006年04月24日

中世〜近世の風俗を眺める

出光美術館『風俗画にみる日本の暮らし 〜平安から江戸』

平安から江戸時代にかけて制作された巻物や屏風などに光を当て、そこに描かれた風俗画の中に当時の人々の暮らしぶりを覗きみようとする企画展(日曜で終了)。

okuni_kabuki01.jpg近世の屏風絵を中心に、思いのほか多くの風俗画を鑑賞することができた。とくに目を引いたのは、近世の大都市である江戸を舞台にした風俗画、とくに歌舞伎や遊郭などの”悪所”が描かれた作品群だった。悪の世界が放つ華やいだ雰囲気がとても魅力的に描かれていたと思う。ただ残念なのは、描写されている当時の人々の風貌、身なり顔つきなどからその背景、とくにその人が属している階層などを読みとることができないことだ。これは網野善彦氏の著書(過去記事)を読んだり、北斎展(過去記事)を観に行ったりしたときなどにも感じたことなのだけど、日本の中世〜近世の服飾と社会との関連がもう少し理解できるようになれば、当時の絵画から読みとることのできる物語の量や質が向上し、このような展覧会をよりいっそう楽しむことができるのだろう。

あと、悪所以外で印象的だったのは西欧との交流の中で描かれた風俗画で、当時上陸したポルトガル人の様子が描写されていたり、彼らからもたらされたのであろう資料をもとに世界地図が大きな屏風に描かれていたりしているのが面白かった。また、地図に描かれたこの列島の北東部、いわゆる蝦夷地のかたちが曖昧であるのに、東アジアからヨーロッパにかけての地形はとても精度が高く、そのアンバランスさから当時の日本人の関心のあり方が垣間見えているような気がして、そこがとても興味深く感じられた。
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友人の誘いにのったおかげで、無料で入場することができてラッキーだった。生後10ヶ月になる友人の息子を抱いて一緒に観たりしながら、日曜日の午後をゆったりと過ごすことができた。
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2006年03月25日

ロダンとカリエールが描く境界

曇り。上野。国立西洋美術館『ロダンとカリエール』展。6月4日まで。

オーギュスト・ロダンとウジェーヌ・カリエールの交流を軸に、その表現を比較しながら、根底に流れる感覚の共通性を探る展覧会。

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20代の頃、パリのロダン美術館に2度ほど足を運んだことがある。こじんまりとして居心地のいいところだった。ロダンというと、「考える人」くらいの知識しか持ってなかったのだけど、美術館で実際に作品を眺めてみて、その印象がずいぶんと変わったことを今でも憶えている。とくに印象に残ったのは大理石による作品群で、白く滑らかな肌をした人間の身体が、その輪郭を曖昧にしながら背景や台座と溶けあっていたり、男女が抱き合いながら混ざり合っていたりする様子がとても官能的に描かれていた。その時の印象を蘇らせてみたいと思い、午後の上野をぶらついてみた。

ロダンとカリエールは1880年頃に知り合って以来、カリエールが亡くなるまでの間、同朋として親交を深めながら互いの創作活動に影響を与え合った。ロダンはカリエールの創作に対する姿勢を近しく感じていたようで、その作品を絵画ではなく彫刻であると評していたようだ。彼らは共に、目にみえる事物の表層ではなく、その奥に潜む「内なる生」を表現しようと努めた。その態度は同時代の象徴主義の芸術家たちに共感を与えていたのだという。

*****

カリエールによる作品の背景はとても暗く、人間が闇の中からぼんやりと浮き出るように描かれている。あるいは、人物の輪郭が曖昧になりながら闇と混ざり合っているようにもみえて、その点はロダンの作品から受ける印象と通じるものが感じられた。

ふたりの作品の中で繰り返し描かれているのは、この世界の向こう側(自然界)からもたらされる何かを受け取ろうとする人間の姿であった。思考や瞑想によってインスピレーションを得ようとする人物(「考える人」など)や、向こう側の世界との媒介として存在する女性の姿などが数多く描かれていた。

やはり女性は自然界と強く結びつく存在として捉えられている。そのイメージは、この世に生命をもたらす母親であるとか、あるいは逆に、その魅力で男性を誘惑し、闇の世界の中へと引きずり込もうとする魔性の女として表現されていた。とくにカリエールは母親や母と子の関係に固執している。それは彼自身が子供を亡くしていることが影響しているらしいけれど、その他にも何か要因があるのかもしれない。

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1時間ほどで鑑賞できる展覧会だった。ロダンもカリエールもよかった。駆け足で常設展も眺めたのだけど、モネがよくみえた。オルセーにも行ってみたくなった。
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2006年03月12日

脳の不思議 記号と前頭前野の関係

ETV特集『心はどこにあるのか? 〜脳科学者・川島隆太の挑戦〜』

脳の前頭前野(前頭連合野)を活性化するためのトレーニングを通して、人間の心の不思議を考える。

brain00.jpg心はどこにあるのか、という脳の研究が注目されている。川島隆太氏によると、それは脳の前頭前野という部位にあるのだそうだ。前頭前野は前頭葉の一部で、その働きはまだ解明されてはいない。しかし、考える、想像する、コミュニケーションをとる、学習する、記憶する、感情を制御する、やる気を起こす、集中する、といった人間らしい心の動きと深い繋がりがあるらしい。

この前頭前野は簡単な計算(一桁の足し算など)や短い文の音読(「うめがさく」など)によって活性化されることが解っている。実際に、認知症の老人(いわゆるボケ老人)に対して簡単な計算や音読のトレーニングを課すことによって、その症状が大きく改善されているのだ。
そのトレーニングの効果はお年寄りに限られているわけではない。小・中学校でもいわゆる「百枡計算」を採用しているところがあり、その”脳のウォーミングアップ運動”によって、物事を記憶・理解するための能力が向上し、さらには性格や態度にまで影響を及ぼす場合があるのだという。

なぜ簡単な計算や音読が前頭前野を活性化するのか、という謎も解明されてはいない。ただ、人間が文字や数字などの記号によって前頭前野を発達させてきたことと深い繋がりがあるようだ。人間の脳と記号の間にはどのような謎が隠されているのだろう。

光トポグラフィーという器械をつかった実験では、TVゲームや複雑な計算よりも簡単な計算をしている時に脳の血流量が増えていることが実証されていた。また、電話による会話よりも顔をあわせた会話の方が脳を活性化させること、子供の場合は他人よりも家族と会話する方が脳が活性化されることなどが紹介されていた。子供の教育に関する議論があれこれされているけれども、家庭内の会話が子供の脳にとって大切な要素であることを忘れてはならない、と川島氏は主張している。

*****

脳の成長は10代後半がピークでそれ以降は退化するのだという説も覆されているようだ。認知症を予防するためにも、前頭前野のトレーニングはしておいた方がいいような気もする。気の置けない人たちと他愛もない会話をわいわいとすること、ぼくにはそれが最良のトレーニングになってるんじゃないかな。

(関連記事:「脳と創造性」 不確実性の海へ/2005/05/02)
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2006年03月10日

王権と芸術 音と映像のイメージ

BS世界のドキュメンタリー『芸術のわな』シリーズ第2−4回。

『第2回 権力が生み出す虚像』

拡大する都市(国家)を支配するために、王権はメディアを利用して自らのイメージを万民に伝えた。ストーンヘンジで発見された権力者の副葬品、ペルセポリスの巨大彫刻群、アレクサンドロス大王の彫像や貨幣などを参照しながら、古代の王権が利用した映像イメージの歴史が振り返られる。

『第3回 音と映像の力』

映画が生み出す幻想の起源を辿る。古代メソポタミアのウルクで創作されたギルガメシュ、アッシュール・バニパル王によるニネヴェ宮殿の壁画、ローマのトラヤヌス円柱に描かれた物語(フィクション)、そしてアボリジニによる聖なる儀式などが参照される。

『第4回 為政者の意図』

mictlantecuhtli01.jpg人間が抱く死のイメージと権力の関係。その歴史。ヨルダン渓谷のエリコで出土した頭蓋骨(漆喰や貝によって顔が復元され、装飾が加えられている)、中南米の古代文明による生贄の儀式、古代メトルリア人が描いた天国と地獄、そして西欧人に崇められるキリストと十字架など、それらが人間に与える死のイメージ(恐怖と安堵)が紹介されている。
また、死に対する恐怖感を与えられた人間が、自分と意見の異なる人間に対して強い敵意を抱くという実験を紹介しながら、その傾向がしばしば権力に利用されてしまいがちであることが指摘される。

*****

王権による都市や国家の誕生と芸術の関係。といっても、参照される世界が広いような狭いような。何故あえてタイトルが”芸術”なのか、”メディアのわな”の方がよかったのかも、などと考えながら番組を眺めた。

”芸術のわな”、”貨幣のわな”、それに”広告のわな”など、人間の無意識を刺激するこれらの罠は世界中に溢れている。無意識という内なる神の領域をみだりに侵してはならない、という規制は既に存在しないのだから。神なき時代を上手に生きなければならない。そのためには何が必要とされるのだろう。

(関連記事:視覚イメージと人間の無意識、そして王権の関係/2005/03/07)
posted by Ken-U at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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