2006年04月19日

「青春のお通り」 高度経済成長と自由恋愛

吉永小百合主演『青春のお通り』

吉永小百合主演のアイドル映画。基本的にはコメディとして仕立てられているけれど、扱っているテーマは結構重い。高度経済成長期における家庭の崩壊を背景に、入り乱れる自由恋愛の光と影が描かれている。

seishun04.jpg高度経済成長を背景として生まれた新中流層。彼らは核家族としてニュータウンで暮らし、年老いた親は老人ホームへと隔離される。解体された家から独り離れた南原桜子は、友人の久子が住む団地に居候をするが、自活のため、務めていた会社を辞めて、住み込みで家政婦として働くことを決意する。

桜子の新しい職場は山手にある高級住宅街の豪邸である。家の主は放送作家、その妻は女優で、彼らはたいへんに贅沢な暮らしを送っている。桜子は当初、足を踏み入れた華やかな世界に魅力を感じるが、その裏側を垣間見ることによって、次第に気持ちを変化させていく。夫婦仲は既に冷め切っており、互いに愛人をつくって不倫を楽しんでいるが、相手のことは見て見ぬ振りをしている。そんな”豊かな”生活に幻滅している矢先に、桜子はある事件に遭遇してしまうのだった。

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桜子の周囲は自由恋愛で溢れている。そして豪邸の主人やその運転手、出入りの酒屋、駆け出しの役者など、様々な男たちに口説かれ、その誘惑をすり抜けながら、桜子はカネと結びついた自由(恋愛)について心を悩ませなければならない。カネは自由を生むが、その豊かさが生む自由(恋愛)の中に、果たして自分の幸せが見つけられるのかどうか。思い悩む桜子の脳裏には、いつもある男の姿が浮かんでいる。

ある男とは久子の兄の圭太のことで、圭太と桜子は互いに想いを寄せ合っているけれども、その気持ちに素直になることができてはいない。圭太は真面目だけが取り柄の、うだつの上がらない月収2万の声優という設定である。果たしてその恋の行方はどうなるのか、といった陳腐なファンタジーの世界にこの物語は突入していく。

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ファンタジーの分量が少ないせいか、”陳腐”とはいってもなかなか楽しめてしまう作品だった。ところで、このての物語を眺めていると、どうしても”ベタ”な結末を期待してしまうのはいったい何故なんだろうか?
posted by Ken-U at 02:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月11日

「にっぽん昆虫記」 近代を生き抜く女の生命力

今村昌平監督『にっぽん昆虫記』

1942年春、松木トメは没落していく山村の暮らしから逃れ、製糸工場の女工となる。しかし敗戦後、西欧化のうねりに飲みこまれるように彼女は上京し、大都市の只中で生き抜くことを決意する。

nippon_konchuki00.jpg松木トメの波乱の半生を主軸として、近代日本社会の辺境を生きる人々を”昆虫”の姿に重ねながら描こうとしている。

1918年、トメは貧しい山村に生まれるが、1942年には家から離れ、女工となる。その翌年、トメは村に呼び戻され、地主の息子との間にひとりの娘を儲けるが、貧しい田舎暮らしに耐えられず、その娘を残したまま独り上京し、文字通り体を張ってカネを稼いでいく。トメが生き抜く40年あまりの年月を通して、西欧化を加速させる社会の暗部が描かれ、さらに前近代的な慣習の残る山村と都市との暮らしぶりが対比される。ある種の記録映画のような作品だった。

とくに山村と都市で暮らす男の対比が面白く感じられた。田舎の男は純朴だが、頼りがいはない。他方、都会の男は言葉が巧みで狡猾、自己中心的なご都合主義者である。その違いが、そのまま山村と都市という共同体の違いに重ねられている。
日本社会は戦後、都市化を加速させたため、トメや娘の信子はその流れに飲み込まれるように東京へと押し出される。そして都会の男たちの食い物にされてしまうのだ。その近代の男を象徴するのが問屋を営んでいる唐沢である。彼はコールガールの元締めとなったトメのパトロンになるが、娘の信子にも手を出し、自分の情婦にしようとする。トメからは”お父さん”と呼ばれ、信子からは”パパ”と呼ばれるようになった唐沢は、若い信子の肉体に夢中になり、その体をまさぐりながら、カネの力で彼女の未来を買い取ろうとする。その姿はとても醜悪で、強い印象を残す。

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扱う題材は同時期の成瀬巳喜男と通じるものがあるけれど、その描き方はずいぶんと違う。こちらには軽妙さがあって、その悲喜劇的な物語からは生命の力が感じられる。その違いはやはり世代によるものなのかもしれない。本作でいえば、トメもタフな女だけれど、信子には母親を上回るしたたかさがある。同じような違いが、成瀬と今村の間にあるのかもしれない。

”記録映画のような”作品であるせいか、映像的にはやや平坦で、物語としては濃密であるにもかかわらず、123分が少し長く感じられた。とくに前半は、土間でまぐわうシーンを除くと、淡々としたショットが多かったように思う。なまりの強い台詞のせいで物語の中に入るのが難しかった、ということもあるのかもしれない。
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2005年11月09日

俳優笠智衆 わたしと松竹大船撮影所

「俳優 笠智衆 わたしと松竹大船撮影所」を鑑賞。笠智衆さんが松竹大船撮影所を訪れ、取り壊される直前の俳優館、編集ビル、ダビングステージを眺めながら、その思い出を語るドキュメンタリー・フィルム。

1936年、松竹の撮影所は蒲田から大船へと移される。大船撮影所の3万坪の敷地には、8組の撮影を並行して進めることができるだけの設備が整えられていた。また、この時期はサイレントからトーキーへの移行期とも重なっていて、小津安二郎監督は、この年、彼のトーキー第1作となる「一人息子」を撮影した。
そしてこの「一人息子」という作品は、俳優笠智衆の出世作でもあった。蒲田時代の彼は、無名の大部屋俳優のひとりに過ぎなかったのだ。この時まだ32歳だった彼は、うどん粉をつかったメイクで老け役を演じ、それ以降、老け専門の俳優として活躍することになる。

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tokyo_monogatari.jpg笠智衆さんは当時を振り返りながら、例の調子で訥々と語っている。彼のキャリアは大船撮影所の歩みそのもののように思える。

彼は小津組で重用されていたけれども、城戸四郎所長はそれを良くは思ってなかったらしい。小津監督に操り人形のように芝居させられている、というのがその理由だそうで、まあ、聞くとなるほどと思ってしまうような話だ。
その小津監督からは、演技の下手さをいつも指摘されていたようだ。1分以上の演技はできないから1分以上のカットは撮らないと言われていたらしい。それが木下恵介監督の「陸軍」で5分のカットを演じなければならなくなって、とても緊張してしまったという話を披露してくれた。ただ、アフレコを苦手にする俳優が多い中で、彼はそれを得意にしていたので、小津監督から、アフレコだけはうまいねえ、と厭味を言われたらしい。思わず笑ってしまうような話だ。

笠智衆さんは熊本の出身で、実家は浄土真宗の寺院。他力本願という言葉を引き合いに出しながら、自分のキャリアは見えない大きな力に支えられていて、そのおかげで多くの優秀な監督たちと仕事をすることができたのだと語り、自身の話を結んでいた。

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60年以降になると、映画産業は衰退の一途を辿っていく。その流れに押され、撮影所内の施設も徐々に閉鎖されてしまう。この作品が製作されてから20年後の2000年6月、大船撮影所は全面的に閉鎖された。

松竹に限らず、戦後の日本映画の質の高さには驚かされてしまうけれども、その質を支えていた撮影所というシステムは崩壊してしまっている。引き継がれないまま消え去ったしまったノウハウも多いんじゃないだろうか。そういった背景を考えると、現在の日本映画と当時の映画の間には大きな断絶があるように思えてしまう。これからの日本映画はどうなるんだろう。というか、ここのところ新しい日本映画をあまり観てないという事実に気づいてしまった。
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2005年10月03日

「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」 遠くの花火、届かない声

山田洋次監督の「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」を鑑賞。74年の8月に公開された、シリーズ第13作。マドンナ役は吉永小百合。

生まれて初めて「寅さん」を鑑賞した。これまで眼中になかったこのシリーズを観た理由はいくつかある。まず、喜劇を演じる吉永小百合が観たかった。少し前に、彼女が主演した「風と樹と空と」(過去記事)を観て以来、ぼくは40年遅れの吉永小百合ファンになったと同時に、吉永小百合は優れた喜劇女優だと勝手に思い込んでいる。終戦の年に生まれた彼女は、戦後日本の”陽”の部分を背負い込んだ女優だといえるんじゃないだろうか。

それに山田洋次監督といえば、今では「釣りバカ日誌」だけど、ぼくはこのシリーズの数本を、あるところで観た。エール・フランスの機内でよく上映しているのだ。ぼくはパリへと向かうフライトの中で、「釣りバカ日誌」シリーズを鑑賞しながら、なかなかよくできた娯楽作品だと感じていた。ということは、「寅さん」シリーズも侮れないはずだ、と思えるようになっていたのだ。そこにNHKの特集が重なった。そして吉永小百合の出演作がまわってきたのだ。これまで自分が無視してきたものを、この機会に観ておきたい。この機会を逃すわけにはいかない。

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torasan_sayuri01.jpg夢見がちな男、寅次郎がふらりと柴又に舞い戻る。滞在していた島根の温泉津で、結婚相手をみつけたというのだ。夫が蒸発してしまった子持ちの女性で、名前は絹代という。その事実を確かめるために、さくらやタコ社長とともに、寅次郎は温泉津へと向かう。

温泉津へ到着し、お絹さんのもとを訪ねると、出て行ったはずの夫が戻ってきていて、寅次郎の恋はあっけなく終わってしまう。その晩はタコ社長とやけ酒。そして朝早く、さくらへ宛てた置き手紙を残して、寅次郎はひとり津和野へと旅立つ。

ここまでは笑える喜劇でよかったんだけど、津和野で寅次郎が歌子(吉永小百合)と再会するところから、物語のトーンは大きく変わる。再会の瞬間の、歌子の表情を眺めるだけで泣けてしまう。
父親の反対を押し切ってまで一緒になった歌子の夫は、病気のために亡くなっていた。彼女は後家として、肩身の狭い生活を送っている。寅次郎は何かあったら柴又に来いと歌子に告げる。そして歌子は東京に戻り、寅次郎を訪ねる。その後は寅次郎のほろ苦い恋と、娘と父親の和解、そして歌子の自活の物語が紡がれていく。

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なんだか切ない物語だった。歌子は父親と和解するし、新しい仕事にも就く。彼女は伊豆大島の福祉施設に就職する。ハッピーエンドといえばそうなんだけど、やっぱり切ない。出会いと別れ、そして寅次郎の決して届かない想いを描いたシリーズなんだろうから、それはあたりまえなのかもしれない。さよならだけが人生だ。

人間同士がくっついたり離れたり。その機微に触れ、何度もじわりとさせられた。喜劇を演じる吉永小百合を観るという当ては外れたけど、いい「寅さん」デビューができたんじゃないだろうか。、柴又という東京の辺境と、地方都市を舞台にした物語。取り残され、忘れ去られようとしているものの中に隠されたドラマを、このシリーズは丁寧に描き出しているんだろう。
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2005年09月01日

「運命じゃない人」 表層しか見えない男

渋谷で内田けんじ監督の「運命じゃない人」を鑑賞。サービスデーで1,000円。今の東京を生きる男女5人が、ワケアリな札束をめぐって紡ぐ物語。

unmei.jpg男女5人それぞれの物語、そのディテールが、とても器用に繋ぎ合わせられている。同じ時間を、視点を変えながら反復して描くことで、物語の全貌が浮かび上がっていく。その展開は観る者の意表をつき、ときには笑いを誘う。

冒頭は、婚約を破棄してしまった真紀の姿が描かれているんだけど、そこがイマイチだったんで、物語になかなか入っていけなかった。真紀自身のナレーションによって、彼女の心情が語られていくっていう演出がちょっと...
物語の構造は面白いけど、映画としての描かれ方はどうなんだろう。テイストがカワイイ感じだから、ウケはいいのかもしれないな。

この登場人物の中で、宮田くんだけが特異な存在というか、例外的な立ち位置にいて、そんな彼を中心にしながら物語りは進んでいく。

宮田くんが例外的な存在でいられるのは、彼には人物や物事の表層しか見えないから。彼の目に映る表層の向こう側では、悪い女やらヤクザやら探偵やらがドロドロといろんなことになってるんだけど、彼だけはそこに巻き込まれず、別の世界を生きている。この宮田くん的な生き方にこそ価値がある。そう語られているように感じられた。

この「軽さ」というか「薄さ」というか、そこが今の東京というか、日本の気分に合っている。そういう支持のされ方をしてるのかな。笑いどころも随所にあり、ちょっとした気分転換にはいい作品。ただし、劇場に足を運んで観る価値のある作品かどうか、そこはちょっと微妙かな。
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2005年08月28日

「愛と死の記録」 投下後20年過ぎても残る原爆の悲劇

吉永小百合の「愛と死の記録」を鑑賞。監督は蔵原惟繕。共演は渡哲也。'66年の作品。純愛物語というよりも、戦後20年を過ぎても消えることのない原爆の悲劇を描いた物語、という印象を受けた。

sayuri_lovedeath03.jpg舞台は広島。レコード店に勤める和江は、印刷工場の労働者である幸雄と恋に落ちる。この作品は純愛物語ではないので、恋に落ちるまでの過程は大胆に省略されている。
恋に落ちたふたりを不幸な運命が襲う。幸雄は被爆者で、白血病を発症させてしまったのだ。和江は被爆の事実は知りながらも、病気の詳細は知らされていない。彼女は幸雄の回復を信じ、献身的な看病を続ける。

和江の懸命な看病が実ることもなく、幸雄は絶命する。幸雄の入院から臨終までの描き方もあっけない。和江は臨終に立ち会うこともできない。そして和江は幸雄から、そしてこの世のあらゆるものから引き裂かれてしまう。

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ラストについてはどうなんだろう。ぼくの好みではないな。幸雄の死後、和江は友人に「幸雄は天国に、うちはこの世に、万事そこから出発じゃ」と告げる。そこで予想された展開とは違った。でも、それだけ製作側の原爆に対する想いが強いってことなんだろうし、実際、原爆はそれだけ強烈なものをこの国にもたらしたってことなんだろう。
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2005年08月23日

「修羅雪姫 怨み恋歌」 修羅とともに生きる女

藤田敏八監督の「修羅雪姫 怨み恋歌」を鑑賞。「修羅雪姫」の続編。

WOWOWでは先月、「修羅雪姫」「修羅雪姫 怨み恋歌」を続けて放送した。ぼくはチェックしてなかったんだけど、偶然「修羅雪姫」の冒頭部分を観て後悔した。あの画は素晴らしかった。で、リピート放送で是非とも鑑賞しようと誓ったんだけど、今月はアナログで「〜怨み恋歌」の放送のみ。悔しい。

shurayuki_urami_1.jpg時代は明治。日露戦争終結後の日本。雪はこの国の近代化に背を向け、殺人犯として逃亡の旅を続けている。しかし警察に追われ続けて疲弊した雪は、遂に剣を投げ捨てる。修羅雪は修羅を捨てた。そして警察に逮捕される。
死刑執行の日、護送車が襲われ、雪は国家秘密警察の手に渡る。彼らは再び雪に剣を渡す。雪はスパイとして、無政府主義者である徳永乱水のもとへと送り込まれる。

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とても反権力色が強い作品。雪は乱水をめぐる政治抗争に巻き込まれ、乱水の弟が住む貧民窟へと辿り着く。場所は四谷鮫ヶ橋。下谷万年町、芝新網町と並ぶ、当時の東京における3大貧民窟のひとつだ。そこでは日本の近代化に取り残された人非人たちが蠢いている。近代に排除されゆく人々と国家の対立、という構図で物語が綴られていく。

そして最後まで、修羅雪は修羅を捨てることができない。時代に翻弄されながらも懸命に闘い続ける鹿島雪を梶芽衣子が好演。セリフは最小限にとどめ、表情で感情を表現し続けるんだけど、これがいい。梶芽衣子の顔立ちが役柄にうまくはまっている。

なかなかの良作。でも1作目の方がいいんだろうな、たぶん。来月は放送あるかな。
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2005年08月22日

「愛と死をみつめて」 運命に嬲られる美女

吉永小百合の「愛と死をみつめて」を鑑賞。監督は蔵原惟繕。

美貌を持つ女優の身体に傷をつけたり、残酷な環境の中に突き落として苦しめることによってある種の興奮を喚起させようとする作品はよくあるけど、この「愛と死をみつめて」もそういった位置づけの作品ってことになるんだろう。そのせいか、純愛物語っていうよりも、運命に嬲られながら孤独な死を迎える主人公の姿を残酷に描いた物語って感じ。実話をもとにつくられた純粋な悲劇。

sayuri02.jpg吉永小百合が演じる道子は、顔に軟骨肉腫を患ってしまい入院する。やがて医師から、死を遠ざけるために顔面の左側を切除する手術をしなければないと告げられる。父親や恋人の説得もあり、道子は手術を受ける。術後、道子の顔の左側は大きなガーゼで覆われてしまう。その後、最期まで彼女の顔の半分はガーゼで隠されたままだ。

あの吉永小百合の美貌にメスを入れて傷つけてしまうっていう部分は、それほど強調されてはいない。どちらかというと、病人をめぐる社会的、政治的な問題に対するメッセージが散りばめられているといった印象。そういった演出はいまいち。個人の死を扱う作品なんだから、もっと私的な部分を強調して欲しかった。

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美しい道子の聡明な性格や気遣いが、彼女をさらに追い詰めてしまう。この世のありとあらゆるものから嬲られているようにみえる。道子はあまりにも孤独だ。観ていてかなり辛い。

自分の最期が近いことを感じた道子は、身の回りの大切なものを処分する。恋人の誠からもらった手紙も全て燃やしてしまう。焼却炉の煙突から上がる煙。道子はその煙を見上げながら、近い将来に煙になってしまう自分のことを考える。命の儚さを想う。

演出ももうひとつだし、作品としてはあまり好きなタイプのものじゃないんだけど、それでも吉永小百合は美しい。演出を超えて輝いていた。冒頭の、ラジオに顔を寄せて野球中継を聴く姿や、終盤の、電話しながら静かに涙を流す顔のアップなど。完璧に美しかった。

でもやっぱり、こういう作品に吉永小百合はもったいないんじゃないかな。
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2005年08月18日

「めぐりあい」 労働者の熱い恋愛劇

恩地日出夫監督の「めぐりあい」を鑑賞。

舞台は川崎の工場地帯。努は自動車メーカーの組立工として働いている、とても粗野な男だ。
努は通勤中に典子をナンパする。その後もしつこく迫り、典子の勤務先にまで顔を出す。典子は、努の情熱的で強引な態度に絆されて、やがてその気持ちを受け入れる。しかしその直後、ふたりの家庭に不幸な出来事が起こってしまう...

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とても熱い恋愛物語。気恥ずかしくなるくらい。でも時代が時代だからっていうことで、自然と受け入れることができる。日本にもそういう時代があったんだ。韓国映画に流れる熱さと、少し繋がる雰囲気がある。

努のキャラクターには、黒沢年男の容姿や立ち振る舞いがそのまま活かされている。っていうか、演技してるんだろうか?って思える。それにしても、この人は変わってない。今も当時のままの感覚で生きてるんだろう。良くも悪くも。
努は高卒だからたいした出世はできない。しかし作業でミスをすると、劣悪な環境の部門に降格になる。大手の自動車メーカーに勤めているとはいえ、彼は工場の底辺で働く、ひとりの労働者にすぎない。そういった話は「風と…」にも出てきた。高度経済成長を牽引した自動車産業のいろいろが、この作品では率直に描かれている。

典子は工場の近くにある自動車部品の卸問屋に勤めている。父親は戦死していて、母と弟の3人で慎ましく暮らしている。演じる酒井和歌子の初々しさに驚く。

努と典子。恋に落ちたふたりは、それぞれに背負っているものがある。ふたりに掛かる重圧は、それぞれの身に降りかかる事件によってその重みを増す。ふたりは運命に引き裂かれそうになるが、若さと情熱の力でそれを乗り越えようとする。

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社会の進化とともに、人間の営みの中には引き裂かれてしまう部分が確かにある。この作品でも、高度経済成長によって得られるものと、引き裂かれ、失われてしまいそうになるものとが描かれている。そういった時代が抱える不条理を、黒沢年男の熱苦しいキャラクターが繋ぎとめようと奮闘する。熱い青春劇。
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2005年08月17日

「風と樹と空と」 夢の時代の青春劇

松尾昭典監督の「風と樹と空と」を鑑賞。若かりし頃の吉永小百合が主演。その魅力が詰め込まれた素晴らしいコメディー。ずっと眺めていたいと思わせる作品。

sayuri01.jpg多喜子は高校を出て、仲間と共に東北から上京する。彼女は安川家で家政婦として働くことになっている。安川家の主人は会社社長で、家族は裕福な暮らしを送っている。安川家に迎えられた多喜子は、その快活な性格からすぐに周囲に受け入れられる。

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1964年の作品。東京オリンピックの年。日本は高度経済成長の只中にある。日本人がまだ夢見てた時代。その時代のムードが作品の中に溢れ出ている。作品の持つ軽快なリズムが、その時代と重なって感じられる。
多喜子と仲間たちが、首都高をつかって羽田空港まで遊びに行く。そこにも当時の東京が感じられる。ちなみに、首都高1号線(羽田線)とモノレールが開通したのがちょうどその年。当時の東京の先端がうまく作品に織り込まれている。
夢の都市東京。その夢の先端にある羽田。多喜子はその先にあるフランスを想う。パリを夢見る。多喜子の夢は尽きない。

とにかく多喜子、いや吉永小百合がとても魅力的だ。素晴らしい。当時、熱狂的なファンがいたというのもわかる。
彼女の魅力は美貌だけじゃない。彼女が演じるキャラクターが、観る者を魅了してしまう。多喜子はもちろんとても女性的な娘なんだけど、男勝りな一面も持っている。幼さをまだ残しているようで、時折とても大人びた振る舞いをみせる。そして性的な会話も平然とやってのける。聡明でいながら、軽率なところもあったりする。たまに酔う。蹴る。泣く。そして歌う。
相容れないはずの様々なキャラクターが、彼女の中に混在している。それぞれの魅力が乱反射しながら、キラキラと輝いて見える。彼女の美しさは、あらゆる矛盾を超えたところで光を放っている。

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しかし浮かれたところばかりではない。人生が、そしてこの時代が抱える歪みを、軽快な物語の中にさりげなく挿し込んでいる。
上京後、夢破れる仲間がいる。歌手をあきらめ、バーで働く友人。勤め先でトラブルを起こして帰郷する者もいる。自由恋愛をめぐるトラブルもある。デパートの特選売り場では、故郷の農村との格差を痛感させられる。当時の日本に引き裂れるものたちが、そこでは描かれている。

まだ夢のある時代。多喜子の夢。多喜子の未来。それは多喜子が見るパリの幻影のように儚いものかもしれない。それでも多喜子の足どりはしっかりとしている。しっかりと未来に向かっている。あらゆる矛盾を超えて。

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今はもうこういう作品をつくることができないから、とても貴重なものだと思う。あの時代だからこそ醸せるムードがある。この作品はVHS・DVDともリリースされてないようだから、観ることができてラッキーだった。見逃した人も多いと思うけど、この作品の魅力を独り占めできたような気がしてちょっと嬉しい。
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2005年08月14日

「仁義なき戦い」 この国のグラウンド・ゼロをめぐるカオス

深作欣二監督の「仁義なき戦い」を鑑賞。WOWOWではこのシリーズを一気に放送する。それにしてもいい企画だ。タイミングもいい。戦後60年。そして自民党分裂選挙。ここのところ、大戦や戦後をとりあげたキレイな特番が多い中、裏社会の視点で描いた戦後を、ここであらためて晒すことには大きな意義があると思う。
この企画は一部の"マニア的ファン"以外には無視されるのかもしれない。知的映画ファンからは特に。しかしこれは"今"全国民が観るべき映画だといえるものなんじゃないだろうか。

hiroshima01.jpg広島の呉市を本拠地とする山守組を中心とした抗争劇。この作品で描かれているのは、戦後日本の裏社会の姿だ。

米軍によるヒロシマへの原爆投下によって、多くの命とともに、人々の営みを支えていた社会秩序も吹き飛ばされる。そして無法地帯が現れる。剥き出しになった、現代の境界的領域。この列島に生まれた、新しいカオスの世界。

密輸、闇市、賭博、売春、戦争(朝鮮戦争による特需)、興行、ヒロポン(覚醒剤)、港湾。そこには悪党たちが蠢いている。その前線にはヤクザたちが立たされる。彼らは暴力によって、境界的領域から巨大な富を生み出す。奪いとる。しかしその富は、裏社会の前線から、さらに奥深い闇の世界へと消えていく。搾取される。その闇の奥に棲み、裏社会を支配しているのは、政治家であり資本家である。

ヤクザたちは闇の世界に生き、そして死ぬ。殺し、殺される。奪い、奪われる。闇の支配者に翻弄され、押し潰されていく。血まみれになった極道たちの魂が、叫びとともにフィルムになすりつけられているようだった。

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この物語はフィクションだけど、実話をベースにしている。時事ネタとからめると、自民党の地方組織とも繋がりがある話なんだろう。そして地域の政治家から、さらに中央へと、富の移動は進むということか。それを改革と呼ぶんだろう。裏社会に排除されると、ろくなことがないな。

広能と兄弟の契りを交わす時に、若杉は言う。最初から極道として生きている人間はいないと。それがとても印象的だった。

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予約ミスで、「仁義なき戦い 広島死闘篇」の録画を逃してしまった。痛い。明日の放送分はどうしようか。とりあえず録っとくかな。

(関連記事:悪党の変遷/2005/04/04)
posted by Ken-U at 02:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月27日

「東京物語」 失いながら生きていくこと

台風上陸中。昼、帰宅中に凄い雨に遭った。で、今日はうちでおとなしく、小津安二郎監督の「東京物語」を鑑賞した。たぶん観るのは初めてだと思う。小津作品らしく、淡々としているようで、とても濃密な作品だった。

tokyo_monogatari.jpg平山周吉とその妻とみは、東京で暮らす子供たちに会うために、はるばる尾道から上京する。しかし、久々の再会を喜ぶことができたのは僅かな間だけだった。周吉ととみは子供たちの家に世話になりながら、親子の間にできてしまった溝を思い知らされてしまう。
長男の幸一と長女の志げはそれぞれ結婚し、家庭を持っていて、日々の生活に追われている。そんな暮らしの中、親に見せる態度にはどこかしら冷たさが漂っていて、両親を失望させてしまう。
会話の中に出てくる、東京と尾道の距離にもそれが表わされていた。思いのほか近いと感じていた距離が、次第に遠くに感じられていく。

*****

観ていてとても切なかった。東京は戦後の復興から、高度経済成長の入り口にさしかかっている頃か。その暮らしぶりは都会的で、人々の心には余裕が感じられない。我が身のことで精一杯という様子だ。50年も前の物語だけど、そこに横たわっているものは今と変わらないな、なんて感じてしまった。

幸一と志げは、年老いた両親を厄介者のように扱ってしまう。志げの態度は特に露骨だ。両親はそれぞれの家をたらい回しにされながら、やがて居場所を失っていく。
そんな中で、戦死した次男の妻、紀子だけが親身になって周吉ととみの世話を焼く。血の繋がらない義理の娘の心ある態度を通して、実の子供たちの冷淡さがより浮き立って感じられた。

東京の最後の夜、とみは独り暮らしの紀子の家に泊めてもらい、周吉は東京で暮らす旧友を訪ねる。そして旧友と三人で深夜まで酒を酌み交わし、酩酊してしまう。酔った勢いで旧友が言う、

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