2005年06月29日

「お早よう」 無駄でまわる喜劇

ozu_ohayou.jpg今日もNHK-BSで小津安二郎作品。「お早よう」を鑑賞。

土手の下、平屋の並ぶ貧しい住宅街が舞台となったコメディ。そこに住んでいる母親たちは噂好きで、無駄口ばかり利いている。そんな彼女たちの下世話な姿を描きながら、この喜劇は幕を開ける。

質素に暮らす林敬太郎とその妻、民子。ふたりの息子はその暮らしぶりに不満を抱えている。家の中にはTVがない。夕飯は毎日さんまの干物と豚汁。母親に文句を言っても聞き入れてはもらえない。TVの誘惑に負けて習い事の英語をサボり、隣に住む水商売風の若い夫婦のところに上がり込んではTVを観ている。それを母親に咎められたことで子供たちの不満は爆発し、彼らは今後誰に対しても無言を貫くと宣言する。

口を利かなくなったのは、長男の実が敬太郎から無駄口が多いと叱られたから。TVが欲しい、さんまの干物は嫌だと文句ばかりでうるさいと。実は、大人も「お早よう」だの「天気がいいですね」だの無駄なことばっかり話していると反論する。そういった口論の末、実は弟の勇を巻き込んだうえで無言宣言をする。

たしかに大人は無駄なことばかり口にしている。でも無駄があるからいいんじゃないか。余計なことがなくなったら、世の中味も素っ気もなくなってしまう。無駄なことが潤滑油になって、世の中は回っているんじゃないか。と、子供たちに英語を教えている平一郎は言う。ここが小津監督のいいたいところなんだろう。

この物語も、無駄なものによって紡がれている。噂話、TV、押し売り(無駄なものを売りつける)、オナラ、そして天気についての会話などなど。最後は敬太郎が、無駄だと思っていたTVをついに買うことで息子たちの機嫌が直る。そして家庭内に平和が取り戻されていく。そんなありふれた日常を切り取りながら、軽妙な喜劇に仕立てている。
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2005年06月28日

「お茶漬の味」 共同体崩壊の始点を描く

ozu_ochazuke.jpgNHK−BSで小津安二郎監督の「お茶漬の味」を鑑賞。奥行きのある和室の描き方が素晴らしい。

妙子とその夫である茂吉の関係はとても冷めている。原因は"育ち"の違い。裕福な家庭で育った妙子と、田舎育ちの茂吉の間には価値観のギャップがあって、それが埋められないままになっている。親に強引に進められた見合い結婚だということもあって、結婚当初からふたりの間には溝がある。特に妙子の心の中にはしこりが残っているようだ。ふたりの心が行き違う様子が、電話や電報のやりとりを通しながら語られている。

こういう夫婦のパターンって昔はけっこうあったみたいだ。現在60代の夫婦でも、旦那さんは地方の比較的貧しい環境の出身で、奥さんは都会の裕福な家庭で育っているというケースがよくある。ただ、その世代は見合いじゃなくて、恋愛結婚のようだ。戦後の結婚のあり方は、見合いから恋愛結婚へと移行していった。戦後の日本社会が急速に西洋化したことがその背景になっている。この作品の中でも、妙子の姪である節子が、見合いの席から逃げ出してしまう様子が描かれている。節子は見合いという制度を封建的だと否定して、自由恋愛へ向かおうとする。結婚や家庭のあり方が大きく変化して、女性が解放されていく様子がそこには描かれている。

ただし小津監督は、この"自由化"の急速な流れに対して、お茶漬をつかいながらメッセージを投げかけているようだ。茂吉の海外赴任の直前になって、妙子は夫に対する自分の気持ちに気づかされる。そして価値観の相違の象徴であるお茶漬けを、ふたりで一緒に食べながら、お互いの気持ちを語り合う。その触れあいを通して、ふたりの間に初めて夫婦としての絆が生まれる。妙子は、慣れないぬかみそを触ったせいで匂いがついてしまったといって、自分の手を茂吉に差し出す。その手を茂吉が嗅いでみせる。そこがとてもいい。

その晩の様子を、妙子が節子に話して聞かせるんだけど、妙子はカメラに向かって話している。つまり観ているこちら側に向かって、夫婦のあり方について語っているように撮られている。この作品が公開されてから半世紀以上が経ってるけど、ここで提示されているメッセージは、現代の日本人にとっても有効なものだと思う。いや、手遅れというべきか...

長くなってしまうので、茂吉が背負っているものについては省略。いろいろと思うことが膨らんでしまう、とても社会性の強い作品だった。

(関連記事:「東京物語」 失いながら生きていくこと/2005/07/27)
(関連記事:「お早よう」 無駄でまわる喜劇/2005/06/29)
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2005年06月15日

黒澤明ドキュメント 乱(CHAOS)と向き合う

kurosawa.jpg録画していた「A・K ドキュメント黒澤明」を鑑賞。

「乱」の撮影現場を取材したドキュメンタリー。「黒澤組」の現場を覗き見るという以外は、あまりそそるものが見当たらなかった。撮影現場の雰囲気は過度に張り詰めたものではなく、穏やかさの中にもある種の緊張感が行き渡っているといった印象だった。

昨晩、NONFIXの「東京ニューシネマパラダイス」を観たせいもあって、黒澤組の七人の侍として紹介されたスタッフの方たちの佇まいがとても印象的だった。技術者が持っている独特の雰囲気には憧れてしまう。

そして最も印象的だったのは、彼の自伝から引用された関東大震災の時のエピソード。震災から一夜明け、彼は兄に連れられて廃墟と化した東京の街を歩いた。火事で焼け焦げた死体や、暴力によって殺された在日コリアンたちの姿を彼は正視することができなかった。兄は「怖いものに目をつぶるから怖いんだ。よく見れば怖いものなんかあるものか」と怯える明少年に言葉をかけた。荒木経惟氏もそうだけど、こういう体験は一生つきまとうものなんだろう。

「乱」とはカオスを意味しているというナレーションが挿入される。自然現象やほかの偶発的な障害と格闘しながら、「乱」をつくりあげていく黒澤明氏の姿を眺めていると、彼にとって映画をつくるということは、カオスと向き合い、それを乗り越えようとすることなんだなと思えてくる。ここで「カオス」とは「死の世界」「無意識の領域」、あるいは「熊の場所」といい換えてもいいんだろう。創造とはそういうものなんだなとつくづく感じた。
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2005年05月20日

「ドッペルゲンガー」 意のままには動かない分身

ほろ酔い。また半額レンタル。黒沢清監督の「ドッペルゲンガー」を鑑賞。予想外に軽妙なノリを持つ作品だった。

doppelganger02.JPG周囲の期待を背負いながら、早崎は人工人体の開発に没頭している。この開発中の人工人体は、人間の「意のままに動く分身」を表している。しかしその開発は思うようには進まず、早崎は煮詰まっていく。そして早崎の前に自身のドッペルゲンガーが現れ、「意のままには動かない分身」として振舞う。このふたつの分身を軸にして物語は進む。

早崎はいかにも優れた研究者らしく、何事に対しても理性的に振舞おうとする。その早崎が、「複雑な人間の動きを複雑なまま再現する」人工人体の開発に行き詰るのは、当然といえばそうなのかもしれない。「もうひとりの早崎」には、その早崎が自身の中で抑圧しているドロドロが投影されている。その「もうひとりの早崎」が、人工人体の開発に協力すると申し出るんだから、理に適ってるというかなんというか。

「もうひとりの早崎」のせいで会社をクビになりながらも、早崎は人工人体の開発に成功する。「もうひとりの早崎」が、これで名誉、権力、金、そして女がおまえの手に入ると早崎に言う。早崎は、そんなものはいらない、それは誰かにくれてやると言うと、「もうひとりの早崎」が、それなら金と女は自分がもらう、と早崎に告げる。

*****

完成した人工人体を巡って、これに関わったヤツらが私欲にまみれながらドロドロ劇を演じる。そして早崎のドッペルゲンガーは殺されてしまう。しかし、早崎がこのドロドロの中で変わっていくのが面白い。徐々に自身の分身に近づいていく。いや、実はドッペルゲンガーはまだ生きていて(あるいは復活して)、本物の早崎と入れ替わったのかもしれない。そう思わせる展開。最後は人工人体を捨てて、金と女を手にして去っていくところが象徴的。ある意味ハッピーエンド的なラスト。こうして早崎が抑圧から解放されたのかどうかは判然としないままこの物語は終わる。

そのラストをともに迎える女、由佳も特異なキャラクターを持っている。彼女の弟は自分のドッペルゲンガーを見てしまい自殺する。そして弟が死んだ後も弟の分身と同居していた。一見清楚に見える由佳も、実は抑圧された欲望を抱えているんだろう。早崎に人工人体開発の手伝いを申し出て、「分身」の方に抱かれそうになったりする。そういう女。しかし彼女は分身を持たない。最後まで確かに存在してるのは、この由佳くらい。それを考えると、終盤の展開は全て由佳の見ている幻影のようにさえ思えてしまう。

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「伸びる腕が腕を掴む」ショットが印象的に繰り返されていた。ドッペルゲンガーが早崎の腕を掴んだり、早崎が人工人体経由で君島と握手したり、最後は由佳が早崎の腕を掴んだり。しかし、その意図はうまく掴めてなかった。
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2005年05月17日

「アカルイミライ」 猛毒クラゲの未来はアカルイのか

akaruimirai02.jpg「アカルイミライ」黒沢清監督。2002年の作品。ホラーは基本的に観ないということもあって、黒沢作品は初鑑賞。特殊な青春映画という印象。

「団塊の世代」と「団塊Jrとそれ以降の世代」の断絶を軸にしながらストーリーは進んでいく。そして物語のキーとなっているのがクラゲ。クラゲとは得体の知れない存在の象徴として描かれていて、上の世代から見た若者の姿と重ねられている。

*****

おしぼり工場で働くフリーターの二村(24歳)は、この社会にうまく適応ができず、行き場のないエネルギーを抱えてしまっている。かつての彼は、眠りにつくと未来の夢を見ていた。そこには希望と平和に満ちた未来の姿があった。しかしその夢も見ることができなくなってしまった。

同僚の有田(27歳)は得体の知れない男。二村の分身のような存在。有田は直感的に物事を眺めながら、二村に様々なアドバイスをする。彼は二村をどこかへ導いているように見える。有田は二村に飼っているクラゲを見せる。何をしても無反応で、ただ水の中を漂っているだけのクラゲ。それでも猛毒を持つアカクラゲの一種。有田は二村に向かって「(クラゲは)おまえと気が合うと思う」と言う。そしてある日、そのクラゲを二村に譲る。

そのクラゲがきっかけとなって、有田はおしぼり工場を辞める。そして事件がおきてしまう。クラゲの譲渡からこの事件までの流れがストーリーの節目になっている。有田はクラゲの未来を二村に託す。そして「行け」のサインとともに自ら命を絶つ。

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2005年03月17日

「カナリア」 それでも生きる

canary.jpg渋谷で「カナリア」。水曜は1,000円。塩田明彦監督。

地下鉄サリン事件から10年。前々作「害虫」の続編的要素を織りまぜながら、あの事件のその後を子供の視点から描いている。互いに言葉や身体をぶつけ合いながら、この乾いた世界を走り抜けようとする子供たちの姿は、痛々しく見えるのと同時に逞しさのような力を感じさせる。

公開されたばかりの作品なので多くは語れないけれど、生き延びるための強い意志が伝わるラストの光一と由希の姿はとても印象深いものだった。

ただ、「害虫」同様、演出には洗練されない無骨さのようなものが感じられた。それが塩田監督の特徴というか、魅力なんだろうか。

*****

あれから10年。個人的にも節目の年だった。事件の日は、新しい会社に入社してちょうど1週間が経ったころだった。会社の規模も、その業種も体質も、自分の役割も、なにもかもが全く違う新しい環境の中で、心機一転、もう一度自分の仕事をつくり直そうと考えている時期だった。自分のリスタートとこの事件のタイミングが妙に重なってしまったことがとても印象に残っている。当時の記憶で書き残したいことがあるので、明日にでも書いてみよう。

あの事件は、この社会における宗教というものを無効にしてしまったような気がする。もちろんその後も様々な団体が活動を続けているし、古来から生き残っている巨大な団体もあるとは思う。でも「宗教」という言葉の持つ意味合いはすっかり変わってしまったんじゃないだろうか。今は歪んだ宗教の時代。TVで荒稼ぎをする超越者たちにすがる時代になったのだと思う。

破壊された家庭から、宗教から、逃走して生きる光一と由希、そして朝子。ぼく自身もあれ以来、迷走してる感がなきにしもあらず。今もふらふらとマイペースで彷徨っている。
posted by Ken-U at 00:22| Comment(0) | TrackBack(10) | 映画(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月14日

「害虫」 駆け抜ける

gaichu.jpg塩田明彦監督「害虫」を予習をかねて鑑賞。孤独な少女のサバイバル。

母親とふたり暮らしのサチ子。喪失感を癒せず自殺未遂する母親。サチ子は学校には通わず、社会から落ちこぼれた男達と過ごすようになる。環境に押し潰されそうなサチ子をかろうじて繋ぎとめているがクラスメイトの夏子。夏子の献身的な友情もあってサチ子は再び学校へ戻る。

*****

ベタという闘魚が象徴的に扱われている。ベタのオスは獰猛で、同じ水槽にオスを入れると戦い続け、メスを入れると殺してしまう。特殊な呼吸器官を持っていて、必要な酸素の大半を直接空気からとるので、水面を塞ぐと酸欠で溺れ死ぬ。魚なのに。

学校に戻ってもサチ子には居場所がない。家では母親の恋人からレイプされそうになる。なにもできない母親。そしてサチ子は逃亡する。教師を辞めて原発で働く元担任の男のもとへと向かう。

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posted by Ken-U at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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