2015年03月05日

「ジミー、野を駆ける伝説」 自由に踊るこころ

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2015年2月12日(木)

『ジミー、野を駆ける伝説』
監督:ケン・ローチ
原題:Jimmy's Hall
場所:新宿ピカデリー

ヨーロッパの教会による民衆の抑圧については過去にいくつかの本を読んだ記憶があるけれど(とくに思い出されるのは『オルガスムの歴史』)、30年代のアイルランド社会がこれほどまで宗教に支配されていたとは。舞台はとある小さな村なのだけれど、聖書を盾にした神父の言葉による抑圧だけではなく、その村にはIRAなどとも繋がる暴力も横行している。労働に勤しみつつましく暮らす村の人々、とくに若者たちには娯楽がなく、こうした状況に不満を鬱屈させているのだが、そこへジミー・グラルトンが帰郷し、彼らの要請を受けて伝説のホールを再開させる。人々は、そこで歌い、踊り、または美術や格闘技など修練に興じる。

これをきっかけに激化する村人たちと教会の対立が描かれるのだけれど、本作の見どころはやはり音楽とダンスにあるのだと思う。とくにダンスは教会に対抗するためのある種の武器というか、人々の自由を象徴する行為として描かれているので印象深い。村民は暴力によらず、伝統的な様式に限らない、たとえばジミーがアメリカから持ち込んだジャズなどによるダンスで抑圧に抗おうとする。ときに、このダンスがある種の祈りのようにも感じられる。

善と悪、人間の自由と秩序について、また暴力によることのない異議申し立ての方法などについて。無数の紛争とともに今後もこの世界は回り続けるのだろうけれど、よりよい方向に向かうよう我々は祈るしかない。
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2015年02月19日

「二重生活」 すべては宙づりのままに

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2015年2月6日(金)

『二重生活』
監督:ロウ・イエ
原題:浮城謎事 Mystery
場所:Uplink X

若者が酒に酔い、クラブで踊り狂い、叫び、車を暴走させる。絡み合う男と女。こうした風俗を眺めていると、これまで別世界に思えた中国がどこか身近に感じられる。幼稚園で遊ぶ子供たち。女性たちは街でショッピングを楽しんでいる。そして、仲睦まじくみえる夫婦。二人の間には幼い娘がいる。夫は会社を経営しているようで、経済的にも恵まれた暮らしを送っている。

本作は、ある夫婦の秘密が露わになるある事件を描いている。簡単にいうと不倫絡みの犯罪劇なのだけれど、ロウ・イエは犯人探しにあまり頓着しない。というか、真犯人は判ってはいるのだけど、そこに辿り着こうという意思があまり感じられないのだ。ロウ・イエ流のサスペンス劇は、なにも解決することなく全てを宙づりにしたまま幕を閉じる。

冒頭の車の暴走シーンとラストの高速道路が印象に残る作品だった。あの車の描かれ方に今の中国社会のあり様が投影されているのだろう。今後のロウ・イエ作品にも注目したい。
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2015年01月09日

映画鑑賞録 2014

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2014年に観た映画は以下のとおり、

『パリ、ただよう花』 ロウ・イエ監督
『ある精肉店のはなし』 纐纈あや監督
『ブルージャスミン』 ウディ・アレン監督
『マドモアゼルC ファッションに愛されたミューズ』 ファビアン・コンスタン監督
『グランド・ブダペスト・ホテル』 ウェス・アンダーソン監督
『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』 アレクサンダー・ペイン監督
『アクト・オブ・キリング』 ジョシュア・オッペンハイマー監督
『her 世界でひとつの彼女』 スパイク・ジョーンズ監督
『イヴ・サンローラン』 ジャリル・レスペール監督
『物語る私たち』 サラ・ポーリー監督
『フランシス・ハ』 ノア・バームバック監督
『ジャージー・ボーイズ』 クリント・イーストウッド監督
『レッド・ファミリー』 イ・ジュヒョン監督
『アメリカの夜』 フランソワ・トリュフォー監督
『馬々と人間たち』 ベネディクト・エルリングソン監督
『メビウス』 キム・ギドク監督
『6才のボクが、大人になるまで』 リチャード・リンクレイター監督

以上17本。これに加え、いまさらだけど、自宅で園子温監督の『愛のむきだし』を観た。13年から劇場に足を運ぶようになり、去年もそれなりに観ることはできたかなと。

自分が結婚したせいか、映画を観ながら家族について考えることが増えた。夫婦や家族の関係を描いたそ作品が多かったのかもしれない。という意味で、『物語る私たち』や『6才のボクが…』は印象深い。作品の力でいうと、やはり『ジャージー・ボーイズ』だけど、『ネブラスカ』の、あの過激なまでの地味さ、ラストの車窓からの眺めも捨てがたいなとか。振り返るといろんな気持ちを思い出す。今年は、できれば観た作品ごとに記録していきたい。
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2011年05月29日

「愛しきソナ」 境界線を越えて

ヤン・ヨンヒ監督 『愛しきソナ』 (新宿K's cinema)

ソナは北朝鮮で生まれた。

sona_movie.jpgヤン・ヨンヒ作品は『ディア・ピョンヤン』(過去記事)に続いて二作目。今回は監督の姪にあたるソナにフォーカスをあて、およそ十五年に渡ってその成長振りを記録している。

ソナは可愛い女の子だ。はきはきとしていて礼儀正しく、カメラの前で屈託なくおしゃべりをしたり、無邪気に歌ったり、踊ったりする。北朝鮮というと、どうしても先入観が拭えないので、そこに住む人たちのことを平坦にイメージしがちだけれども、実際に暮らす北朝鮮の人々は私や私の周囲の人たちとそう変わらない。このドキュメンタリーを通して、よく考えてみると当たり前のことを改めて認識することができた。

しかしながら、やはり北朝鮮は違うな、と。殺伐とした風景、停電、エリートの家族の墓が山中の草むらの中にぽつんと立つなど、この国の抱える悲惨な背景を垣間見ながら、長兄の三番目の妻の歌にじんときた。人の心はかわらないのに、なにがこの深い溝を生み出しているのだろう。

『ディア…』上映の波紋により、北朝鮮はヤン・ヨンヒ監督の入国を拒否している。もう続編をみることができなくなるかもしれないと思うと、残念。
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2011年05月15日

「悲しみのミルク」 即興の歌、その儚さ

クラウディア・リョサ監督 『悲しみのミルク』 (ユーロスペース)

原題 『LA TETA ASUSTADA』

la_teta_asustada.jpg母が受けた痛み。娘はそれを母乳からを受け継いだと信じている。

以前、人文系の本を読んでいた頃、遠い昔の人たちは常日頃から歌うように語り、踊るように振舞っていたのだろう、詩の世界がもっと身近なところにあったに違いない、などと勝手な空想をしていたのだけれど、この『悲しみのミルク』の冒頭部分を眺めていて、ふとその頃のイメージが蘇った。そしてその幻がスクリーンに重なって、溶けていった。本作の舞台であるペルーでは、いまも人々の胸の中に詩の心が残されているのかもしれない。すでに都市部からは消えうせているとしても、山村ではわずかながら残されているのではないだろうか。だから彼女は語るように歌え、自分が抱える恐怖は実母の母乳から伝染したのだとかたくなに信じることができるのだろう。

この世界が抱える問題をそのまま提示するのではなく、歌にくるんで哀しい大人のおとぎ話に仕立て上げたところにこの作品の魅力がある。哀しみに押し潰されないため即興で歌う貧しき娘、そしてその歌を鍵盤を操ることで盗みとり「作品」に仕立て上げて喝采を浴びる富める女。隔てられた二つの世界に暮らす女が対比されながら、しかしダルデンヌ作品と同じく、なにも終わらぬまま結ばれるエンディングにも共鳴した。湧きでる歌のほかに、この世界に救いはあるのだろうか。
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2009年05月24日

「ウェディング・ベルを鳴らせ!」 めぐる命、結ばれる男と女

エミール・クストリッツァ監督 『ウェディング・ベルを鳴らせ!』 (シネマライズ渋谷)

原題:『ZAVET』

この宇宙はぐるぐる回りつづける。

zavet00.jpgすべてがぐるぐる、ごろごろと回り転がりながら、それでも迷いなくハッピーエンドへ雪崩れ込む展開にわくわくした。その様子はさながらサーカスのようで、連続するアクロバティックな光景にこころ躍った。皆が、笑ったり、歌ったり、泣いたり、怒ってみせたりして、そのうえ回転したり、宙吊りになったり落っこちたりでもう愉快なのだ。無数の弾丸が飛び交い人々の命が危機に陥る場面もあるのだけれど、しかしその雨あられの如き弾丸は彼らを避けるように飛ぶのである。ファンタジーの世界。ここで未来は保証されているのだと知れ、安堵して皆の行方を見守ることができた。

この作品は主題として世代交代を扱っている。しかも、その世代交代は価値観の大きな転換を伴なっているようにみえる。それは序盤に描かれる、祖父が国歌に涙する姿と、孫が女性の裸体を覗きみながらへらへらする姿の対比に如実に顕れている。あるいは、それはそそり立つ塔が折られ倒される光景、さらには男根が切り取られるという直接的なシークエンスの中に描き込まれている。つまり、ここでは男性優位主義的な価値観(しかもそれはアメリカと強く結び付けられている)がことごとく破壊されているのだ。そうした価値観の移行がどたばたとおこなわれる中、男と女が恋に落ちて、交わり結ばれてゆく。愛の炸裂。鐘が鳴り響き、無数の銃声が音楽へと変わり、すべてを歓喜に包み込む。この未来はファンタジーの中に。
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2009年02月22日

「ロルナの祈り」 揺れる心、揺らぐ虚実の境界

ジャン=ピエール、リュック・ダルテンヌ監督 『ロルナの祈り』 (恵比寿ガーデンシネマ)

原題:『LE SILENCE DE LORNA』

女は法の網の目をかい潜り、新たな国籍を得る。「夫」は生死の境界をさまよう。

le_silence_de_lorna00.jpgたしかに、結婚とは曖昧な制度だと思う。というか、制度自体は確かなのものだと思うけれど、その土台となる人間の感情、とくに恋愛の感情については、それを確かめることが当事者同士でさえ不可能であることから、その存在は限りなく曖昧にならざるをえない。有ると思えばあるし、無いと思えばないのである。結婚という制度は、この儚さのうえに成り立っている。

彼女は国籍のため、カネのために結婚をする。つまりそれは虚偽の結婚である。法の上では真なのだけれども、情の上では嘘である。だから、彼女と「夫」の寝室は厳密に仕切られている。しかし、月日の流れの中で、「夫」の抱える危うさ、ある種の無垢に触れるうちに、彼女の胸の内に情が芽生え始める。心が揺れる。虚実の境界が揺るぎ、曖昧になる。と同時に、彼女の暮らしを包む嘘の世界が崩れ始める。

意表を突く恋愛劇だった。カメラは、ほかのダルテンヌ作品とは違って、彼女の傍らに寄り添うというより、むしろある一定の距離を保ちながらその姿をみつめていた。たぶん、この作品の主軸は、人間の心とそれに繋がる世界の虚実の曖昧さをロルナの心情の揺らぎを通して描くことにあったのだろう。つまり、この作品のすべてはロルナを演じるアルタ・ドブロシの内面に隠されていたのだ。だからこそあの結末に至るのだろうし、カメラは彼女の姿を執拗に捉え続けなければならなかったのだ。

「らしさ」が薄れているぶん、ダルテンヌ作品としては評価が分かれると思うけれど、私的にはよい作品だと思えた。とくに、自転車に乗る「夫」と戯れるロルナの表情が新鮮で、その瞬間にみせる彼女の明るい笑顔がラストの暗さとの対比の中で強い印象を与える。冷酷な世界。その虚実に翻弄されながらも、彼女はその胎内に大切な秘密を隠し続ける。それが彼女に残された唯一の真実だったのだろう。
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2008年10月27日

「この自由な世界で」 自由世界による拘束

ケン・ローチ監督 『この自由な世界で』 (シネ・アミューズ)

原題 『IT'S A FREE WORLD...』

人材派遣会社を解雇された女は、生き延びるために自ら派遣業を起こす。貧困に苦しむ移民たちを安価な労働力として企業に斡旋するのだ。

its_a_free_world.jpg当初、彼女は望むとおりにカネを得る。いろいろあったけれど、それまでの苦労が報われたのだ。貧しい移民たちは職を探しており、企業(工場)は安価な労働力を求めている。彼女はその橋渡しをしているのだ。善行である。その架け橋は虹色に輝いてみえる。彼女は、殖えていく手元の札束を眺めながら、これで周囲の誰もが幸せになる、と考えたかもしれない。しかし現実は厳しかった。たしかに、手元のカネは殖え続けているのだが、その一方で、まわりの人々とは軋轢が生じる。彼女は孤立する。

父親や友人とのやりとりなど、少し説教臭く感じられる演出もあったけれど、人間を不幸にするこの世の仕組みが日常の中に細かく描きこまれていて、よい作品だと思える。彼女は決して悪人ではないのだけれども、しかしこの冷酷な世界を生き抜くために、奪われる側ではなく奪いとる側に身を置こうとあがく。だからその立ち振る舞いがあたかも悪人のようにみえてしまうのだ。彼女はこの世界の自由に拘束され、身動きがとれずにいる。泥沼である。
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2008年10月05日

「Tokyo!」 破滅都市、東京

オムニバス映画 『Tokyo!』 (シネマライズ渋谷)

それぞれの東京。

*****

ミシェル・ゴンドリー監督 『インテリア・デザイン』

台詞まわしに違和感があり、なかなか作品世界に入ることができなかった。外国人監督が日本語で撮るからこうなるのかもしれない、などと思いながらスクリーンを眺めた。若くて貧しい日本の男女がぺらぺらと言葉を交わしている。男の子は自分のナイーヴさをあからさまに振り撒く。

とはいえ、よい作品だと思う。時間が進むにつれて話が面白くなっていった。あくまでも女の子が主役である点がよかった。彼女にとってあの結末は悲劇的だといえるのだけれど、彼女自身はその不条理な運命を自然に受け留め、むしろそこに充実を感じている。その様子の滑稽さが、彼女に降りかかった運命の哀しみに深みを与えていると思う。

*****

レオス・カラックス監督 『メルド』

tokyo_merde.jpg「MERDE」とは、日本語で言うところの「糞」にあたる。その「MERDE」、つまり「糞」と名づけられた異形の男は、地底、つまりどぶの世界に棲み、不意にこの世に現れては悪行の限りを尽くす。彼は、みさかいなく人を襲う。そして無差別に殺す。糞まみれ、どぶさらいの日々を過ごす私にとって(過去記事)、メルドは分身だと感じた。彼はこの私自身なのである。あるいは、メルドが告発するように、彼はひょっとすると私の息子なのかもしれない。その告発によると、メルドは、我々の強姦行為の果てに産み落とされたというのだ。身に憶えはないのだが、強姦の自覚がなくとも日々強姦を繰り返している自覚が私にはある。私も自覚無き強姦者の一人なのだ。

メルドに対する人々の反応に日本社会の今を見た。メルドを嫌悪し、彼をこの世から消し去ろうとする大多数の人々にまぎれて、彼を擁護したり、過大に崇めたり、あるいは彼にあやかって金儲けをしようとしたり、メルドに翻弄され、過剰に反応し右往左往する人々の在り様ひとつひとつに妙なリアリティーが感じられ、この世はまさに「MERDE」であると痛感。糞食らえ。

*****

ポン・ジュノ監督 『シェイキング東京』

この社会が引きこもり的であることは日々痛感するところであるのだが、本作では、その引きこもり体質を凝縮したような男が主人公で、彼が女と出会い、部屋を出るまでの話が描かれている。そして、地震がくる。

精神の歪みと、地底の怒り。破壊、破滅。という点は『メルド』と通じるところがあるように思われる。外から眺めると、東京は破滅的というか自滅的というか、先行き暗い都市にみえるのかもしれない。実際、中に身を置いていてもそれを感じる。

*****

過大な期待はしないようにしていたのだけれど、小粒ながらどれもよい作品に仕上がっていて、予想より面白く観ることができた。よい意味で裏切られてよかった。とくに『メルド』には影響された。街を歩いていると、不意にあの歩き方、喋り方を真似したくなる。彼は現代のゴジラだと思う。
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2008年08月27日

「コロッサル・ユース」

ペドロ・コスタ監督 『コロッサル・ユース』 (シアター・イメージフォーラム)

原題:『Juventude em Marcha』

colossal_youth00.jpg率直にいうと、退屈な映画だった。流れに抑揚がなく、どこまでも平坦で尺も長い。だから作品に集中することが難しくて、実際、上映中に席を立つ人が目立った。

前作、『ヴァンダの部屋』はそれなりによかったと思う。けれど、あれは自宅で観たからそれなりだと感じたんだろうか。本作も、扱っているテーマは興味深いものだったし、だから好意的な心持ちで臨んだのだけれど、でもどうしてもだめだった。

画があまりにきちんとしている。統率され過ぎているように感じてしまう。俳優も、その背景にしても、まあ映画なのだから監督が管理するのはあたりまえのことなのだけれど、それにしても窮屈な画づくりではないかと思う。

この作品は観る者に忍耐を強いる。がしかし、それでも名のある人たちが高い評価を与えているわけだから、きっとなにかがあるのだろう。だから忍耐強く本作と向き合い、それから映画評を読んでふんふんするのもいいと思う。優等生向けの作品、ということなのかもしれない。
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2008年03月09日

「ジプシー・キャラバン」 流れる民の音楽

ジャスミン・デラル監督 『ジプシー・キャラバン』 (渋谷シネアミューズ)

原題: 『WHEN THE ROAD BENDS: TALES OF A GYPSY CARAVAN』

各国に散らばるロマの楽団が集結し、北米ツアーを決行する。

gypsy_caravan00.jpg約1,000年ほど昔のインドを起源とするロマの人々は、流れる民であるがゆえにその存在自体がどこか音楽的である。実際、彼らは音の連なりと戯れるように音楽を奏で、歌い、踊りながら大陸を流れ流れた。本作は、放浪の果てにインドから西欧にかけて散在するロマたちが北米に集い、6週間のツアーを共にする様子を収めたドキュメンタリーである。カメラは、彼らがアメリカの地を旅しながらそれぞれに音楽を披露し、あるいは互いに交流、交歓しながら異国の地に暮らす同胞との絆を深め、ロマであることの誇りについて語り合う様子を追っている。

ところで、音楽とはいったい何ものなのだろう。音の連なりによって紡ぎだされる得体の知れぬあるような無いような波のような像のような空間のような自在に変化する掴みどころのないある種の流体といえばいいのだろうか。本作を眺めている間、この音楽の摩訶不思議な魅力について繰り返し考えさせられた。というのも、ロマの奏でる音楽は、からだというか魂というか、このわたしの深いところへダイレクトに響き、その波の上に無条件に身を委ねたくなるほどの魅力に満ちていたのだ。音楽が生み出すこの感覚、感触は、どこから現れ、そしてどこへと消えていくのだろうか。

ロマの音楽には、どこか古代的な響きがある。弦楽器と打楽器により紡ぎだされるリズム、旋律は微細に変化しながら音楽のもつ柔らかさ、しなやかさを際立たせ、聴く者の魂を揺さぶり、高揚させる。彼らの音楽はどこか根源的で、奥深さを感じさせるが、実際、彼らは音楽を通して人間の心の奥深い領域に触れることができているのではないだろうか。だからこそ賤視されてきたのだろう。人間は根源的なものにただならぬ力を感じ、畏れ、近世、近代においてはそれを穢れたものとして排除しようとしてきた(過去記事1過去記事2)。ロマの人々は、流れ放浪することによってその排除の圧力に抗おうとしてきたのかもしれない。マケドニア出身の歌手エスマは、ロマは戦争を始めたこともなければ、人間を差別、排斥したこともないと訴える。それなのに差別されなければならなかった。さらにナチス政権においては、ホロコーストの対象となって、多くのロマたちがその犠牲にされなければならなかったのだ。

エスマの歌声には、人間が生きることの哀しみ、それでも尽きることの無い生への想いが籠められている。彼女のソウルは生死をひっくるめた悦びに満ちているのだ。音楽に世界を変える力はないのかもしれないが、例えば、この作品を通して人間の価値観を少しだけ更新するくらいのことはできるだろう。理屈抜きに楽しめる作品だからこそ、泣いたり笑ったりリズムを刻んだりしているうちにうっかり仕切線を跨ぐようなところがある。良作であると思う。
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2007年12月09日

「SECRET SUNSHINE」 主なき世界を生きる

イ・チャンドン監督 『SECRET SUNSHINE』 (TOKYO FILMEX)

女は、息子を連れて夫の故郷に移る。その街の名は密陽といった。

secret_sunshine00.jpg女がその街に来たのは、在りし日の夫が故郷に移り住むことを望んでいたからだ。彼女は、夫の身代わりとしてその街で自活することにより亡き夫との絆を保とうとしている。そこに自分の人生の意味があるのだと彼女は固く信じているのだ。しかし、彼女は車をうまく運転することができない。考えごとをしながらハンドルを握るとうっかり人を轢きそうになるし、路上でエンジンの調子が悪くなってもなす術がなく、助けをじっと待つしかない。都会的な匂いを残す未亡人にやさしく手を差し伸べようとする男は多いのだが、自分が信じる人生の意味を守るために、彼女は極力他人の手を借りずに生きようとする。しかし人生における不確実性は、彼女に主の不在を痛感させる。

彼女は二重の意味で主を失ってしまう。夫を亡くし、夫の不在を埋める存在として信じた神からも裏切られてしまうのだ。それまで信じていた人生の意味すべてを失った女の目に、この世界はどのように映るのだろう。この作品は、彼女がすべてを失い、その後、この世界と新たな関係を築くために第一歩を踏み出すまでの過程を描いている。目に見えるものだけがこの世のすべてなのだろうか。この人生になにか特別な意味はあるのか。この世を生き延びるために絶対的な主は必要なのだろうか。本作が映像を通して投げかける問いは深く重く、すぐにその答えを求めることは難しい。とはいえ、それらは人生のある局面で誰もが突きつけられるものばかりである。

意識を引きつけて離さない濃い映像と、重く難解なテーマを扱っていながら娯楽性を保つ巧みな脚本が素晴らしく、韓国映画らしいとても力強い作品に仕上げられている。上映後に行われたイ・チャンドン監督とのQ&Aも含め、答えの出ない多くの問いについて考えるよい機会になったが、それが答えを出せない問いであったがゆえに今ここで言葉にできることは限られている。本作は太陽を主の象徴として扱っていたけれども、沈黙を守り続ける太陽の背後にはきっと多くの秘密が隠されているのだろう。
posted by Ken-U at 20:09| Comment(6) | TrackBack(5) | 映画(その他の国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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