2007年09月13日

「街のあかり」 都市の暗闇を照らすものは?

アキ・カウリスマキ監督 『街のあかり』 (ユーロスペース)

英題 『LIGHTS IN THE DUSK』

警備会社で働くその男は、職場である商業ビルの暗闇に向かって歩いていく。

lights_in_the_dusk.jpg冒頭の、商業ビルの暗闇へと男が向かうショットには、これから諸々の災難が彼の身に降りかかるであろうことが暗に示されている。ここから彼は、無自覚に、この硬質な社会の暗闇からさらに奈落の底へとどこまでも転がり落ちていくのだ。そして彼の命は危機に瀕する。

ところで、おもわず「災難」という言葉をつかってしまったのだけれど、彼を巻き込んだあの大小の事件は、はたして「災難」といえるのだろうか。それらのきっかけは彼自身の「無自覚」にあったのだから、「災難」という言葉は適当ではないのかもしれない。多用されるクロースアップは彼のその無自覚さ加減を際立たせる。繰り返し誤った判断を下し続ける彼の表情には抑揚がないのだ。彼は平坦な顔をしている。彼の周囲の人間たちも無表情なのだが、それらの顔には無自覚さではなく、冷淡さが顕れている。

そしてついにその男は生死の境界をさまよう。しかしその一方で、彼には最後のチャンスが与えられる。果たして、彼はその機会を自覚することができただろうか。少なくとも、彼はその指先に何かを感じとったはずだ。朦朧とする意識の中で、彼はその感触をどう捉えたのだろう。その男に未来はあるのだろうか。
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2006年12月29日

「サクリファイス」 死と再生と

アンドレイ・タルコフスキー監督 『サクリファイス』 / 原題『Offret / Sacrificatio』
(下高井戸シネマ)

言葉を生業とする老人は、自らの死を目前に控え、その人生の虚しさを悔やみ、人間の愚かさを憂う。そして日本から来たという一本の枯れ木を遺し、その世話を幼い息子に託すのだった。

the_adoration_of_the_magi.jpgサクリファイスの儀礼は、主体と社会の真実をあらわにしてみせる。と同時に、一点集中化の儀礼であることによって、その真実を覆い隠してしまう働きもする。すべての社会性は、サクリファイスの暴力によってささえられているが、いったん社会機構が動きはじめると、社会は自分の本質が暴力にささえられていることを、隠そうとするのである。近代の市民世界は、とくにその傾向が強い。市民世界は、自分が理性によって構成される、というイデオロギーにささえられている。そのために、自分の奥底でたえまない殺害がおこなわれている真実を暴露する儀礼などは、非合理として、認めようとしない。(中沢新一『森のバロック』p.371)

21世紀という新たな殺戮の時代を生きていると、ネットや他のメディアに溢れる情報を介して、我々はこの社会が残酷な暴力によって支えられているという事実を思い知らされる。レバノン(過去記事)やイラク、アフガニスタンばかりではなく、この世界ではあらゆる惨殺や黙殺が横行している。その事実を知りながら、我々にはなす術がない。いや、なす術がないどころか、むしろ黙殺に加担し、その殺戮の恩恵を受けてこの豊かな社会を維持しようとしているのだ。だから不安が募るのではないか。そしてさらなる抑圧へと向かおうとするのではないだろうか。我々にはこの社会の闇の部分を力ずくでも覆い隠す必要があるのだ。そしてその暴力的な隠蔽工作は、さらなる犠牲を必要とすることになるだろう。

*****

最終戦争勃発の知らせを受けた老人は、神に祈りを捧げてサクリファイスの約束をする。しかし、彼のいうサクリファイスはキリスト教的な道徳観による自己犠牲に過ぎず、上に引いたサクリファイスの意味合いとは大きくかけ離れている。死の暗闇に追い詰められた老人が、うろたえ、超越的な存在を外部に求め、それにすがろうとする姿をこの作品は描こうとしているのかもしれない。本作における超越的な外部とは、キリスト教における主であり、東洋の果てに浮かぶ日本という神秘の国である。ただし、ここでいう「日本」はもちろんフィクショナルなもので、ぼくが住むこの国とは別のものだと考えるほうがいいだろう。

タイトルに惹かれてこのタルコフスキーの遺作を鑑賞したのだけど、あてが外れた部分もあって、いまひとつ作品の中に入りこむことはできなかった。ただし、難解な作品なので、読めずに誤解してしまっているところも多々あると思う。映像では、コントラストの強いモノクロームによる幻想(?)や上下にパンするカメラワークが印象に残った。登場人物の中では、郵便夫のオットーと家政婦のマリアが重要な役割を担っているような気がする。オットーがアレクサンデル(老人)に贈り物をする時に、無理をしたのではないかとアレクサンデルに訊かれ、贈り物とは無理をするものだとオットーは答えるのだけど、その台詞が何故か強く印象に残った。魔女であるという家政婦のマリアにはマグダラのマリアの姿が重ねられているのだろう。キリスト教的な世界に限界を感じながらも、そこから脱することができない西欧人の不自由さを強く感じる作品だった。
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2006年12月24日

「麦の穂をゆらす風」 蜃気楼のように揺れる理想の地を目指して

ケン・ローチ監督
『麦の穂をゆらす風』/原題『THE WIND THAT SHAKES THE BARLEY』
(シネ・アミューズ イースト/ウエスト)

the_wind_that_shakes_the_barley01.jpgデミアンは、医者を志していたにもかかわらず、その夢を捨て、アイルランドの独立運動に身を投じる。彼は、兄弟のように育ち、ともに暮らしてきた故郷の仲間を見捨てることができなかった。イギリスの軍人たちは、町の男たちを罵倒しては殴りつけ、さらにはその命を奪い取ってしまう。目に余る侵略者たちの蛮行に耐え切れなくなったデミアンは、同士とともに銃をとり、母国の解放を目指して戦うことを決意したのだ。

正義の名のもとにIRAは組織され、その目標達成のために文字通りの死闘を繰り広げる。しかし、彼らはその理想の地に辿り着くことができない。もう少しで手が届きそうにはなるのだが、その目的地はデミアンたちの手元をかすめ、ふたたび彼らのもとから遠ざかってしまうのだ。彼方に浮かぶ理想の地は蜃気楼のように揺らいでいる。しかし、それでも彼らは組織のために前進を続けなければならない。そして目的地との距離を埋めるために、さらに多くの血を流しながら奪った命を贄として国家に捧げるのだ。

*****

先日観た、クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』(過去記事)と同じようなテーマを持つ作品だと思う。『父親たち…』は、戦場のむごさを映像として露わにすることで戦争の悲惨さを表現しようとしていたけれど、この『麦の穂をゆらす風』は、デミアンを中心にした人間関係が戦いによって破壊されていく様子を丹念に追うことで戦争の悲惨さを描き出そうとしている。大切な家族や友を守るために始めた戦いであるにもかかわらず、守るべき大切な人々に銃口を向け、その命を奪わなければならなくなったデミアンと彼の同士たち。何故、彼らはそのような悲劇的な矛盾を抱えなければならなくなったのだろう。デミアンらがつくりあげた組織は、いつの間にか彼らが憎んでいた国家と同じような姿に成り果ててしまった。講和条約締結後、デミアンの兄テディがみせる軍服姿に、その矛盾が投射されているような気がした。国家に対抗するために国家を模した組織をつくりあげてしまった彼らは、自らの過ちに気づくことができただろうか。彼らは蜃気楼のように浮かぶ理想の地を追ううちに、何か大切なもの見失ってしまったのかもしれない。
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2006年10月29日

「イノセント」 神なき時代の支配者が辿る末路

ルキノ・ヴィスコンティ監督『イノセント』/原題『L'innocente』 (テアトルタイムズスクエア)

神なき時代を生きる貴族階級の男トゥリオは、己の欲望のままに女を支配しようとするのだが、すべては彼の許を擦り抜け、そして消え去ってしまう。

l'innocente00.jpgこの作品に登場する女性たちは、自然界、つまり神の領域と繋がりを持つ存在として描かれている。しかし、無神論者であるトゥリオは、神から奪い取った女を貞淑な妻と娼婦的な愛人という相容れない存在に引き裂き、その双方を共に支配しようとする。ここで描かれているトゥリオと女たちの関係は、そのまま彼の神に対する態度に重ねることができる。つまり、トゥリオは神を冒涜し、さらにはその領域(=自然界)を奪い、征服しようとしているのだ。このトゥリオの神に対する挑発的な態度は、雪の降るクリスマスの夜にジュリアナが産んだ子供に手をかけ、殺してしまうシーンに集約されている。ここで描かれるトゥリオの姿には、自らの欲望のままに生きる近代の男のあり方そのものが投射されているようにも思える。

さらに、生まれたばかりの赤ん坊を殺すシーン以上に強く印象に残るのは、ジュリアナの許に戻ったトゥリオが、自分から気持ちが離れつつあるジュリアナを愛人のように扱いながら、誘惑するシーンである。トゥリオはジュリアナをベッドに横たえ、服を脱がし、愛撫しながら、妻であった頃には教えなかった快楽をこれから与えるのだと彼女の耳元で囁く。トゥリオの愛撫に力を奪われ、なされるがままに身をゆだねるジュリアナの肢体はとても淫らで、かつそこで交わるふたりの姿からは強い官能の匂いが放たれている。ここで全てはトゥリオの手中にあるようにみえるのだが、事態はその直後に急変する。実はこの時すでにジュリアナは別の男と密通を交わしており、後に殺される運命にある子供を身篭っているのだ。トゥリオはその隠された事実を知らされ、落胆するとともに、それまで秘めていた残忍な顔を剥き出しにする。

*****

この作品はヴィスコンティ監督の遺作にあたる。死を目前に控えた彼が本作において何を描こうとしたのかはいまひとつ判然としないけれど、絶望したトゥリオが拳銃を自らの体に当てて引き金を引かなければならなかったことと、この作品のタイトルが『L'innocente』であることの間になにかしらの意味が込められているのだと思う。

イタリア映画とはあまり相性がよくないと思い込んでいるせいか、観ていて退屈してしまうシーンが度々あった。それは、この作品に注ぎ込まれているヴィスコンティ監督の視線とぼくの視線との間に大きなギャップがあるということなのかもしれない。共感というか、感情移入することが難しく感じられる作品だった。
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2006年08月17日

「ロゼッタ」 救いなき世界との距離を思う

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督『ロゼッタ』 / 下高井戸シネマ

激しく車が行き交う道路を渡り、林を抜け、破れたフェンスをくぐると、その先にはキャンプ場があり、敷地内に何台ものトレーラーハウスが並べられている。そこで母親とふたり暮らすロゼッタは、ある日突然、工場のマネージャーから解雇を言い渡される。彼女は納得できず、職場に居座ろうとするのだが、駆けつけた警備員に取り押さえられ、力ずくで排除されてしまう。

rosetta03.jpgダルデンヌ兄弟の他の作品と同じように、本作においても彼らはベルギー社会の辺境に生きる人々の姿を描き出そうとしている。郊外を走る道路は硬質な現代社会の輪郭を表しているのだろう。ロゼッタはその外側に身を置く存在であるので、社会の内側の住人からは排除され続けなければならない。ロゼッタの人生からはあらかじめ多くのものが奪われているのだ。彼女はそれを取り戻すために、あるいは奪い返すために、命ある限りもがき続けるしかない。

ロゼッタの唯一の家族である母親はアル中で自暴自棄の生活を送っている。その母親とロゼッタの関係は、ふたりがキャンプ場で揉み合い、ロゼッタが池に落ちてしまうシーンによく表れている。ロゼッタが泥に足をとられ、溺れかけているにもかかわらず、母親は彼女を見捨てて逃げ去ってしまうのだ。ロゼッタが助けを求め、ママと繰り返し叫んでも母親が戻ることはない。ロゼッタが生き延びるためにはそこから自力で這い出すしかないのだ。このシーンはロゼッタの運命そのものをよく表していると思う。

ただし、本作はロゼッタが陥っている絶望的な状況を描くだけの作品ではない。そこから抜け出そうともがく時に彼女が直面する様々な葛藤も随所に描かれており、どちらかというと、その心の揺れの描写が主体になっている作品だとぼくは思うのだ。キャンプ場の池のほとりで、ロゼッタがあの時の母親と同じ立場に立つシーンにその心の揺れ動きが集約されている。ロゼッタの相手は、ワッフル屋で知り合った友人の青年リケである。そこでロゼッタは、自分が母親と同じ道を辿るか、それとも別の道を模索するのか、その選択を迫られる。ロゼッタの新しい人生の手がかりをリケが握っているようにも思えるのだが、例によってその答えが示されることはない。きっとこの物語は、終わることを拒否しているのだろうと思う。

*****

ロゼッタを映し出すカメラは絶えず彼女に寄り添い、その姿を執拗に追い続ける。このカメラワークも他のダルデンヌ作品同様、カメラのこちら側、つまり観客の心に揺さぶりをかける効果を与えている。近距離からロゼッタの姿を見守り続ける観客は、次第に傍観者のままではいられないような気持ちになってしまうのだが、しかしロゼッタはそれを拒絶するかのようにカメラの前で繰り返し扉を閉ざす。そこには観客とロゼッタとの間に横たわる圧倒的な距離、断絶が表されている。観客はどうすることもできず、その断絶に絶望するしかない。ただ心の中で静かに狼狽し、自身の無力を呪いながら、決して終わることのないロゼッタの物語を思い続けるしかないのだ。

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2006年05月20日

「666号室」 シネマの現在、そして未来

ヴィム・ヴェンダース監督『666号室』。原題『CHAMBRE 666』。

chambre666_02.jpg'82年のカンヌ国際映画祭。その開催期間中にホテルの一室をつかって撮影されたドキュメンタリー・ビデオである。ヴェンダースがあらかじめ用意した、映画(業界)が抱える諸問題に関する質問に答えるかたちで、映画祭に参加している監督たちがそれぞれの想いをカメラの前で独白している。

彼らは映画(業界)が直面している危機的状況について語る。当時、レーガン/サッチャーが主導する新自由主義政策によって映画を取り巻く環境は大きく変化していた。とくに、ビデオ・デッキや衛星放送が一般家庭内に急速に普及したことや、投資家が資金運用をより効率的に行うようになったことなどが、映画製作や劇場運営の現場から創造性を奪い去る大きな要因となっていたのだ。画面に映し出される映画監督たちは、その背後にTVを置いた状態で持論を展開する。その光景には映画業界が置かれている状況そのものが投射されているようだった。

ミケランジェロ・アントニオーニ、ジャン=リュック・ゴダール、スティーヴン・スピルバーグなど、多くの監督たちがこのドキュメンタリー撮影に応じているのだが、最も多くの時間が割かれ、かつ内容が充実していたのはやはり冒頭のG.L.ゴダールだったと思う。その発言の一部を以下に引用しておく。

**

”既存の物語を再認識するのはいい。
誰かの映画を再認識することではないよ。
結末を知っている話を自分なりの物語で再認識するんだ”


”とにかくTVは権力の名のもとに生まれてきた。
政治権力や資本の名のもとにね。
そこに物語は存在しない”


”映画は目には見えない独自のイメージを作り出してくれる。
目には見えないものをみせてくれる素晴らしいものさ。
心はイマジネーションの中にあり、その中で旅してるんだ。
ヴェンダースと同じく、私も旅人なのさ”


**

四半世紀近く前に制作されたドキュメンタリーなので、現在と較べると状況が異なる部分もあるとは思う。しかし、通じる部分はそれ以上に多いのではないだろうか。映画業界のことはよくわからないけれど、当時の問題の多くは解決されないまま現在に残され、さらに深刻化しているような気もする。未来の映画のためには何がどう変わればいいのだろうか。
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2006年04月13日

「魂のジュリエッタ」 自立のために妻が潜り抜ける儀式

フェデリコ・フェリーニ監督『魂のジュリエッタ』。原題『GIULIETTA DEGLI SPIRITI』

giulietta_degli_spiriti00.jpg裕福な暮らしを送っているジュリエッタには、結婚して15年になる夫ジョルジョがいる。彼女は結婚当初から変わらず夫を想い続けているが、ジョルジョは”仕事”にかまけてばかりでジュリエッタのことを顧みようとはしない。夫婦生活はすれ違ってばかりである。
結婚記念日の夜、ある霊媒師に出会ったことがきっかけとなって、彼女は自分の心の中にぽっかりと大きな穴が開いてしまっていることに気づく。

大きく膨れあがった虚無感を抱えながら、ジュリエッタは境界領域を彷徨う。まず彼女は海辺に佇みながらまどろみ、そこで夢とも妄想ともつかない不思議な体験をする。それ以降も、彼女の目の前には霊媒師や占師、心理分析学者、そして探偵などの様々な境界領域の住人たちが表われ、彼女にメッセージを送り、翻弄するのだった。

*****

ジュリエッタが自分の少女時代を回想するシーンが、この物語の転機となっているように思える。
まだ幼いジュリエッタは学校で劇を演じていて、その劇中、彼女は自らの信仰に殉じ火刑に処されてしまう。炎に包まれたジュリエッタは天に召され、閉ざされている天国の扉に近づいていくが、そこで舞台に彼女の祖父が乱入し、劇を中止してしまう。この体験は、その後ジュリエッタの性格が抑圧的になってしまったことと何かしらの繋がりがあるように描かれている。

この回想の後、ジュリエッタは炎のように赤い色をした服をまといながら、これまで付き合いのなかった隣家の扉を初めて開き、スージーという娘と出会うのだけど、やはりこの出会いは、少女時代に手の届かなかった天国の扉の記憶と何か繋がりがあるように感じられる。自らの欲望のままに生きる開放的な娘スージーは、ジュリエッタの水先案内人として振舞おうとするが、ジュリエッタはスージーが身を置く享楽的な世界をすり抜け、境界の向こう側、つまり死の世界からの誘惑を断ち切って、彼女が属する現実的な世界に立ち返ろうとする。突然部屋の中に現れた扉を開き、炎に包まれた少女時代の自分自身を抱きしめることによって、ジュリエッタは何かを乗り越え、独りで生き抜くための力を得ることができたのだ。

*****

抑圧から解放されることによって、自立して生き直そうとするジュリエッタの姿がとても魅力的に描かれていた。また、彼女が彷徨う世界は、夢や現実、妄想、そして過去の記憶が判然としないまま混ざり合っているように描かれていて、その奇妙な映像が不思議と心地よく感じられ、強く印象に残った。夜明け前に鑑賞して、それからまた寝たのだけど、その映像に影響されたのか、とても奇妙な夢をみたような気がする。よく憶えてはいないのだけど。
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2006年04月04日

「ナイン・ソングス」 極限の地平から

マイケル・ウィンターボトム監督『ナイン・ソングス』。原題『9 SONGS』。69分の小品。

マットは氷で覆われた大地の上に身を置いている。彼は南極探査隊に加わっているのだ。白い世界が無限に続く荒涼とした極限の地で、マットはリサとの過去を思い出すのだった。

9songs03.jpg冒頭、ロック・バンドのライブ・シーンが映し出される。その高揚感に重ね合わせるようにマットとリサのセックス・シーンが描かれ、ふたりが横たわるベッドの白いシーツに繋げて南極大陸の氷の大地が映し出される。そしてふたりは再びまぐわう。マットが回想するのは、ロック・バンドのライブとリサの身体のことばかりである。

マットとリサのセックス・シーンは濃密で、リアリティーに溢れている。というか、実際にセックスをしているようにみえる。ふたりはまるで本物のカップルのようだ。ボカシのせいでよくわからないけれど、リサがマットのペニスを咥えていたり、マットの上にまたがり、そのペニスを挿入しているようにみえるショットもある。ただ、その描き方はポルノのそれとは違う。ポルノで描かれるものが描かれておらず、ポルノでは描かれないものが描かれているように感じられる。映し出される何通りものセックス・シーンから伝わってくるのは、全身をつかって相手の身体を味わいつくそうとする欲望であり、その欲望を生み出している渇きである。そして他者と溶け合い、混ざり合ってひとつの塊になってしまいたいという願望である。

繰り返し互いの身体を求め合い、まぐわい続けてみても、マットとリサがひとつの塊になることはない。ふたりの身体はすれ違わなければならないのだ。セックスの後、目の前に広がるシーツはどこまでも続いているように感じられる。マットはその無限の広がりに圧倒的な孤独を感じるのだった。

*****

セックス・シーンから伝わる感触が少しずつ変わっていく。そのトーンの変化からふたりの微妙な距離を感じ取ることができるのだけど、その描き方が絶妙で、眺めているうちに、胸をえぐられるような、自分も極限の地を彷徨っているような感覚に襲われてしまう。
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2006年03月23日

「ホテル・ルワンダ」 境界線から生み出される憎悪

曇り。銀座。テリー・ジョージ監督『ホテル・ルワンダ』。原題:『HOTEL RWANDA』

平日の昼間、それも公開されてからそれなりの期間が経っているというのに、銀座の劇場はとても賑わっていた。満員に近かったと思う。公開に至るまでの経緯がメディアにとりあげられたことによって、多くの人々がこの作品に関心を持ち続けているようだ。メディアが人々に与える影響力には改めて驚かされる。

hotel_rwanda001.jpg実際に起きたルワンダ大虐殺事件(1994年)を素材にして、この『ホテル・ルワンダ』は製作されている。主人公のポール・ルセサバギナは実在する人物で、やはり高級ホテルの支配人としてあの混乱を生き延びている。当時行われた虐殺行為は100日間でおよそ100万人の命を奪ったのだという。醜い現実がドラマ化されたこの作品を眺めることによって、人間が社会に引く境界線について改めて考えさせられた。

ルワンダ国内で発生した民族紛争によってこの大虐殺事件は引き起こされた。その背景には西欧の植民地政策がある。第1次世界大戦終結後、ベルギー政府はルワンダの人々をツチ族とフツ族に仕分け、その民族の間に深い境界線を引いた。ルワンダで暮らす人々はその境界線によって引き裂かれ、対立するようになったのだ。そしてその境界線から生み出される憎悪は多くの人々の命を奪い、そしておそらくごく一部の人間に富をもたらしているのだろう。

*****

ルワンダに引かれた境界線をめぐる惨劇を描きながら、この作品はもうひとつの境界線にも光を当てている。それは高級ホテルの支配人として働くポール・ルセサバギナが引く境界線であった。

ポールはルワンダの有力者や富裕層に属する人々と関わる仕事に就いており、ホテルという組織の中で、そしてルワンダ社会の中でも、自分が支配層に近い位に属しているという自負を持っていた。だからポールは「品位」という言葉を好んだのだ。そして彼は自分とその家族(妻と子供たち)を大切に考える一方で、その外側(近隣のルワンダ人)との間には境界線を引いていた。虐殺行為が始まる以前、そして始まった当初、彼は自分と家族のことばかりを気に掛けていて、隣人の命はやや軽んじて考えているように描かれている。

しかし虐殺行為が進むにつれて、ポールが抱いてた価値観は揺さぶられる。彼は自分とルワンダの支配層、そして西欧の人々との間に深い境界線があることを思い知らされるのだ。彼はその現実に愕然としながらも、自分がかつて引いていた境界線を見直していく。そして彼の境界線は揺れながらも広がりをみせ、家族とともに多くの隣人たちを包み込んでいく。その揺れ動く境界線の描写こそがこの作品の主軸なのではないだろうか。この作品が持つテーマは、実はとても身近なものなのかもしれない。

*****

低予算(おそらく)ながら、予想以上によく仕上げられた作品だった。やはり映像的には限界があったようにも感じられたけれど、よく練られた脚本によって、作品の品質が高いレベルに引き上げられていたと思う。

人々がメディアに煽られながら境界線を過剰に意識し、そこから限りなく憎悪を噴き出させていく姿には、いろいろと考えさせられることが多かった。

(関連記事:ルワンダ大虐殺を振り返る/2005/07/24)
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2006年03月21日

「イン・ディス・ワールド」 終わらないジャマールの旅

マイケル・ウィンターボトム監督『イン・ディス・ワールド』。原題:『IN THIS WORLD』

パキスタン北西部の町ペシャワール。少年ジャマールはシャムシャトゥ難民キャンプで暮らす孤児である。彼は町のレンガ工場で働いているが、その給与は1日1米ドルに満たない。パキスタンに希望を見出すことのできないジャマールは、従兄のエナヤットと共にペシャワールを離れ、ロンドンに密入国することを決意する。

in_this_world.jpgこの作品は限りなくドキュメンタリーに近いフィクションとして描かれている。ジャマールは自分自身を演じていて(彼はシャムシャトゥ難民キャンプで暮らしていた)、撮影終了後、ロンドン政府に対して難民申請を行っている。ジャマール自身が抱えている物語がこの作品そのものと重なっているのだ。旅の過程そのものはフィクションであるけれど、そのフィクションはジャマールが背負う重い現実そのものを映し出している。

ロンドンという目的地にたどり着くために、ジャマールとエナヤットは様々な手段を講じて旅を続ける。彼らの目の前には密入国者を相手に商売をする男たちが現れ、容赦なく金品を要求する。あるいは、命を脅かす場合もある。社会の裏ルートを通じて旅をする彼らは、闇の世界のルールに従うことを強いられる。目的を果たすために、豊かな世界で何かを得るために、彼らはそれを手放さなければならないのだ。ジャマールたちはカネを払い、ウォークマンを賄賂として渡し、イスラム的な衣服を脱いで、母国語を捨て、そのうえ積荷のような扱いを受けながら、それでも目的地を目指し続ける。

*****

ジャマールの苛酷な旅は続く。実在するジャマールの難民申請は却下され、特例として18歳になるまでのロンドン滞在が認められた(当時16歳)。彼はロンドンで何を得ることができたのだろう。果たして、彼は本当に豊かな世界にたどり着くことができたのだろうか。ジャマールの目に映るこの世界、"THIS WORLD"とは、ぼくが知るこの世界とは違う姿をしているのではないだろうか。

劇中、ジャマールがジョークをいうシーンが3ヶ所ある。彼は自作のジョークを披露しながら屈託なく笑うのだけど、それを聞く側の反応は悪くなる一方だった。それは、彼のジョークが暴力や戦争、そして死を扱っていて、それを笑い飛ばすためにつくられたものだったからだ。ぼくも彼のジョークでは笑うことができなかった。とくに最後のジョーク、時計の中に閉じ込められて死んでしまう蚊の話に至っては、どちらかというと辛い思いがした。

カメラは絶えずジャマールの傍に据えられていたので、ぼくはこの過酷な旅を至近距離から覗くことができていた。にもかかわらず、そこで感じたのは、決して埋めることのできないジャマールとの圧倒的な距離だった。

*****

『パキスタン地震の現場から』(毎日新聞

『パキスタン北部地震災害救援活動の概況』(日本赤十字
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2006年03月20日

「トミー」 ピンボールの魔術師

ケン・ラッセル監督『トミー』。原題も『TOMMY』。THE WHOによるロックオペラ『TOMMY』の映画化作品。

トミーは彼の母親と義父、そして戦争で死んだはずの実父との間で起きた事件を目撃する。その衝撃は彼から視力と聴力、そして口を利く能力を奪ってしまう。トラウマによる三重苦を背負ったまま成長したトミーは、ある日突然ピンボールの才能を爆発させ、そのチャンピオンとして君臨するようになる。その成功はトミーと彼の両親に巨万の富をもたらし、トミーは超越者として世界中の人々に崇められるようになるのだった。

tommy01.jpg戦争に始まり、義父が起こした事件、そして従兄や伯父による虐待など、トミーが生きる世界は暴力に満ちている。その世界にはさらにセックス&ドラッグス&ロック&ロールが溢れており、それはもう狂気の沙汰である。トミーの母親は母親であるのに妖艶で、セクシーな衣装をまとってシャンパンに酔い、大量のビーンズとチョコレートにまみれてのたうちまわりながら、枕にまたがって腰をくねらせている。キース・ムーンのドラムは暴走し、ジョン・エントウィッスルのベースはうねり、ピート・タウンゼントはぐるんぐるん腕を回しながらギターをかき鳴らして、それを床に叩きつける。ピート・タウンゼントにとってのロックは、トミーにとってのピンボールと同じようなものなのだろう。これはロックによって救われた男の半自伝的な物語だといえるのかもしれない。ただし自伝とはいっても、その物語は妄想的で飛躍に満ちており、あくまでも荒唐無稽な歌劇として仕立てられている。

*****

トミーはピンボールの魔力を駆使しながら暴力的な世界から抜け出し、新たな共同体をつくりあげようとするが、その試みは失敗に終わる。それでも彼はひとり桟橋から湖に飛び込み、川を遡り、岩山を登ってその頂で大きく腕を広げ、この世界を見下ろしながら太陽の光を全身で受けとめようとする。トミーの表情は喜びに満ちている。その笑顔には何の根拠もない。物語はすでに破綻している。それでも彼は確信しているのだ。

ピート・タウンゼントとケン・ラッセルの過剰さがうまく融合していて、ロック的なカタルシスが存分に堪能できる作品に仕上げられている。先日、TVで深夜放送していたのを目撃してしまい、それに刺激されてレンタルしてしまった。かなり久しぶりに観たけれども、やっぱり興奮させられた。
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2006年03月01日

「灰とダイヤモンド」 拳銃と灰と女

アンジェイ・ワイダ監督『灰とダイヤモンド』。原題は『POPIOL I DIAMENT』

popiol_i_diament03.jpg第二次世界大戦終結後、ワルシャワ蜂起を生き延びたマチェクは反共産組織に加わる。彼は暗殺指令を受け、その標的である地区委員会書記の許へと向かう。

共産主義というフィクションに踊り、踊らされる人々。反共産運動はその裏返しであるから、その活動家も同類ということになるだろう。だから、カメラはそのどちらにも寄らず、両者に冷ややかな視線を送り続けている。

マチェクもそれを知っている。彼がサングラスを離さないのは、その醜い虚構を直視することができないからだろう。それでも、退屈しなければそれでいい、自分は成り行きで生きているだけなのだ、とマチェクは自分に言い聞かせる。

しかし、バーの女クリーシャとの出会いによって、マチェクの心は揺さぶられる。が、彼は拳銃を手放すことができなかった。マチェクは拳銃を選び、クリーシャの許を去ってしまう。共産と反共産、男と女、拳銃はあらゆるものを引き裂き、その全てを灰にしてしまう。

*****

流れに緩慢なところが多かったので、ところどころで気持ちが虚ろになってしまった。それでも、後半のマチェクとクリーシャのやりとり、そしてラストの一連のショットなどには惹かれるものがあった。
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