2006年02月28日

「地下水道」 戦争の暗闇と女

アンジェイ・ワイダ監督『地下水道』。原題は『KANAL』

kanal01.jpg1944年9月、ザドラ中尉率いるレジスタンスはワルシャワ蜂起の只中にいた。ドイツ軍に包囲され、危機的状況に陥ってしまった彼の中隊は、地下水道へと逃げ込み、延命を図る。しかし、その地下水道は彼らが生き延びるための抜け穴ではなかった。

ザドラの中隊が迎える最期の様子を描く、と冒頭のナレーションは宣言する。しかし実際には、滅びゆくレジスタンスの姿を描くというより、地下水道の暗闇そのものを描く作品に仕上げられている。中隊が地下水道に潜り込んでからラストに至るまでの間、画面に映し出されるシーンの殆どが暗闇で黒く塗りつぶされているのだ。この暗闇には、戦争によって剥き出しにされる心の闇が投射されているのだろう。

また、地下水道の暗闇には、戦争によって地上から排除される母性の姿が重ねられている。
中隊が地下に潜る前に、彼らと行動を共にする女性のひとり、デイジーが地下水道から戻ってくる。戦争という極限状況の中で、彼女が息をつくことのできる唯一の場所が地下水道だったのだ。ここで、水と暗闇と女、といった母性的なイメージがデイジーと繋げられている。地上で繰り広げられる戦争を嫌い、母性は地下の暗闇の中へと姿を隠すのだ。地下水道の汚水にまみれながら傷ついた男を導くデイジーの姿には、その母性のイメージが投射されている。

*****

戦争が生み出す心の闇と対峙するための作品なのだと思う。が、暗闇のシーンがあまりに多くて鑑賞がしづらかった。
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2006年02月15日

「息子のまなざし」 過去を弔い、葬り去るために

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 監督『息子のまなざし』。原題は『LE FILS』

le_fils06.jpgオリヴィエは職業訓練校で木工技術を指導をしている。性格は真面目かつ几帳面、指導の際に笑顔をみせることもない。訓練校と自宅との間で単調に繰り返される日常は、彼の心にある種の均衡を与えている。

しかしある訓練生の入所によって、オリヴィエの均衡は乱されてしまう。元妻の訪問も重なり、彼の動揺は振幅を増す。オリヴィエの前には心の奥底に閉じ込めていたはずの、あの忌まわしい過去がよみがえる。

葛藤の末、オリヴィエはその訓練生を受け入れる。彼は過去との対峙を選択したのだ。その理由は彼自身にもわからない。元妻の反対をよそに、彼は指導を続けるのだった。

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ハンディ・カメラが寄り添うようにして、オリヴィエの姿を捉え続ける。クロースアップが多用され、背景に音楽が流されることもない。この演出は彼の表情や息づかいを生々しく伝え、観る者を物語の中へと引きずり込んでいく。

オリヴィエはなぜ少年を受け入れたのか、その理由が明示されることはない。しかし、彼が少年の姿に息子の影を見出していたことは間違いないだろう。少年を受け入れることで過去と対峙し、自らの指導で更生させることによって、オリヴィエはあの忌まわしい過去を葬り去り、それを乗り越えようとしているのではないだろうか。

後半に描かれるふたりのドライブはそのための儀式のように感じられた。とくにラストは象徴的に描かれていたように思う。
ふたりは車に積み込まれた木材に黒い布を巻きつけようとするが、その様子がある種の葬儀のように感じられた。黒く覆われた木材は棺のようにみえる。ここでふたりは和解し、力をあわせて死者を弔い、送り出そうとしているのだろう。

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この作品は少年犯罪や更生といった問題に触れている。おそらくその主題は、社会問題とその先にある私的心情とを繋ぐところにあるのだと思う。社会の表層を引きはがして、その奥に隠された物語を剥き出しにするという行為はとても重要なことなのだと思う。
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2006年02月11日

「ウィスキー」 儚い非日常の瞬間

フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール監督 『ウィスキー』。舞台はウルグアイ。

初老の男、ハコボは貧しい靴下工場を営んでいる。妻もなく、母親はしばらく前に亡くなっている。彼は単調な日常を繰り返している。
母親の葬儀が迫ったある日、ハコボは工場の女マルタに声を掛ける。弟のエルマンがブラジルから戻る間、自分の妻を演じてくれというのだ。マルタはそれを承諾する。そして奇妙な3人”家族”は数日を共に過ごすのだった。

whisky01.jpgハコボとマルタの距離。ふたりは想いを寄せ合っているはずなのに、ハコボはそれまでの均衡を壊そうとしない。マルタはハコボを待っているけれども、その時は訪れそうにない。

そこに弟エルマンが割り込んでくる。彼はノイズである。寡黙で禁欲的なハコボとは違い、彼は饒舌でやや享楽的な性格を持っている。それに仕事への取り組み方から母親との接し方まで、なにもかもが違う。そしてマルタへの態度も。

兄弟の間に横たわる溝。そして兄が抱く密かな意地。この兄弟の関係を背景にしながら、マルタは静かに心を揺らす。

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マルタがとても魅力的に描かれていた。若くも美しくもない彼女が、何故か可愛らしく見える。女だなあ、と感じた。

男も男だった。その後に豹変するエルマンの態度だとか。それにハコボの態度はあまりに独善的なものだった。だからマルタは裏切るのだ。
記念撮影という非日常。彼女の期待はその中でしか実を結ぶことがなかった。そして唐突なラスト。その後のハコボの日常はどのように変わったのだろう。果たして電話は繋がったのだろうか?
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2006年02月02日

「ある子供」 子供たちに未来はあるか

終日雨。恵比寿で映画2本。 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 監督(ダルデンヌ兄弟)の『ある子供』を鑑賞。原題は『L' ENFAN』

川と道路に挟まれた小さな小屋。コンクリートに囲まれたブリュノの居場所は薄暗く、見当たるのは寝床のダンボールくらい。そのうえ、川と道路という境界に挟まれて、この世界から隔絶されているように感じられる。

l'enfant02.jpg冒頭から巧みな映像世界に引きずり込まれてしまう。泣く赤ん坊を抱いたソニア(デボラ・フランソワはとても魅力的だった)が閉ざされた扉を叩く。彼女は外へ出るとバイクの後ろに跨り、猛スピードで走る。そしてブリュノを見つけ、父親である彼に生まれたばかりの子供を見せて、名前をジミーだと告げ、彼に抱かせようとする。

しかし、ブリュノはジミーを抱かない。彼はまだ子供(L' ENFAN)なのだ。彼は大人になるための機会を失っている。彼の人生からは、様々な機会が奪われているのだろう。

ブリュノは絶えずカネに追われている。生き延びるために、彼にはカネが必要なのだ。暗闇がブリュノを取り巻き、彼は闇の世界の住人たちと取引しながらカネを得て、日々をやり過ごしている。しかし、闇は少しのカネを与えるかわりに、それ以上のものを奪い去っていく。闇はブリュノを蝕む。やがて彼は、自分が大切なものを失っていることに気づく。

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猛スピードで車が行き交う中、ブリュノやソニアが道路を横切っていく。繰り返し映し出されるそのショットは強く印象に残る。それに、空のベビーカーを押すブリュノの姿や、終盤、追い詰められ、冷たい川の中に身を沈めるブリュノと少年など、どれも緻密に計算されていて、無駄なものがないように思われた。寡黙でありながら、言葉にならない多くのものを物語っている作品だと思う。ラストも素晴らしく、静かなエンドロールを眺めながら、あれこれと想いをめぐらせてしまった。
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2006年01月20日

「天空の草原のナンサ」 針先の米粒のような

ビャンバスレン・ダヴァー監督の『天空の草原のナンサ』を鑑賞。

前作の『らくだの涙』(過去記事)がとても良かったので、この作品はぜひ大きなスクリーンで観たいと思い、日比谷まで足を伸ばした。

the_cave_of_the_yellow_dog01.jpgモンゴルの大草原の中で、羊や牛の群れとともに生きる遊牧民の家族。自然と調和しながら営まれる彼らの日常は、眺めているだけで心地がいい。青空や草原は限りなくどこまでも広がっているし、暮らしの中には鮮やかな色彩がある。そのうえ母親はチーズづくりと歌がうまく、子供たちは愛らしくて奔放に動きまわっている。

しかし、自然との均衡の中で永遠に続くように思われる遊牧民の暮らしにも、変化の兆しがある。それをこの家族の長女、ナンサが示してくれるのだ。

学校が休みに入り、草原から遠く離れた都会からナンサは帰ってくる。まだ幼い彼女は、久々に果たした家族との再会を喜び、自然に囲まれた日常の中に溶け込んでいく。
都会の様子を知るナンサの感覚は少し”進んで”いる。牛の糞で遊ぶ彼女の言葉や仕草の中に、それが表されている。
ある日、ナンサはほら穴で犬を拾い、父親の反対を押し切って、それを飼おうとする。ブチがあるから”ツォーホル”と名づける。ナンサはツォーホルが可愛い。

ナンサはツォーホルに気をとられ過ぎるから、しばしば不用意な行動をとってしまう。それがとても危なっかしい。ナンサとその家族は怖いものに囲まれながら生きているのだという現実を、彼女を見守りながら感じとることができる。そこで生き延びるためには、人智を超えた力の存在と、その恐ろしさを学ぶ必要がある。だから母親は、ナンサに優しくそれを教えるのだ。

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自然の美しさや恐ろしさ、その中で暮らすことの豊かさや難しさ、子供の愛らしさや危うさなどがとても魅力的に描かれている。それに、遊牧民が置かれている難しい状況にも光が当てられていて、それらの要素が巧みに編まれ、静かに提示されている。とても優れた作品だと思う。

少し違うけれど、駄々をこねる子供を通して社会の変容を描くという点では、小津安二郎の『お早よう』(過去記事)を連想してしまった。年の初めからいい作品に出会えてよかった。出足は好調といった感じだ。
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2006年01月05日

「靴に恋して」 現代女性の孤独と恋愛の関係

ラモン・サラサール監督の『靴に恋して』。劇場公開時に続いて2度目の鑑賞。原題は『PIEDRAS』、英題は『STONES』。現代女性が抱える恋愛の問題を描いた群像劇。

piedras01.jpg空を見上げるアニータの顔。そのクロースアップでこの物語は始まる。毎朝、彼女は小犬を連れて決まったコースを散歩する。空を見上げるのは、大空を飛ぶ飛行機の姿を眺めるのが好きだからだ。
彼女の母親アデラは、娼館の女将をしながら生計を立てている。ある日、知的障害者のアニータに介助をつけるため、彼女は看護師の卵であるホアキンを雇うことにする。

その他にも様々な社会的階層の女性たちが登場する。高級官僚の妻であるイザベル、その友人でTVタレントのマルディナ、靴屋の販売員のレイレ、タクシーの運転手のマリカルメン、その娘でジャンキーのダニエラ。彼女たちはそれぞれに問題を抱え、悩みながら日々をやり過ごしている。

彼女たちを悩ませる、恋愛や結婚に関するいざこざが描かれる。アニータはホアキンに想いを寄せ、アデラにはイザベルの夫が言い寄り、イザベルは掛かりつけの医者を口説き、マルディナは夫から暴力を受ける、という具合に。
そして、男の不在。イザベルと夫レオナルドとの関係は冷え切っていて、レオナルドは家を留守にしてばかりいる。マリカルメンの夫は3人の子供を残して死んでしまった。クンはレイレの許を去り、男と同棲する。男の不在は女性たちを孤独に陥れ、家庭という共同体をも崩壊させてしまう。

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女性たちが恋愛と葛藤する姿が、洗練とベタの間を行き来しながら綴られている。スペインという土壌が恋愛劇の部分をベタな方向に引っ張ってしまうのかもしれない。しかし、この作品にはベタには収まりきれない魅力がある。それは、恋愛のいざこざだけではなく、女性を恋愛に駆り立てる背景にも光をあて、それを描こうとしているからなのだと思う。

それにしても、この邦題はまずい。配給元の売り出し方に問題があったような気もする。ターゲットがある層の女性に絞られすぎていたような。友人に誘われなければ、ぼくも劇場に足を運ぶことはなかったと思う。実際、劇場に来ているのは”それ風”の女性ばかりだった。
ちなみに、靴は登場人物のキャラクターを描くためのツールに過ぎない。例えば、イザベルは靴中毒、レイレは高級な靴を店から盗んでいて、マリカルメンはいつもスリッパを履いている、といった風に。

とにかく、長編デビュー作でこれだけ複雑な群像劇を描くのだから、ラモン・サラサールは実力のある監督なのだと思う。なかなかの作品だった
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2005年12月23日

「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」 革命の後に

ジャンニ・ミナ監督の『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』を鑑賞。映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』のメイキング・ドキュメンタリー作品。

エルネスト・ゲバラが、友人アルベルト・グラナードと南米を旅したのが1952年。その50年後にあたる2002年、映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』は撮影された。その撮影クルーは長期間のロケを南米で行いながら、ゲバラの足跡を追う。その撮影の旅の様子を映像として記録したのが、この『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』というドキュメンタリーだ。

traveling_with_guevara01.jpg撮影現場にはアルベルト・グラナード本人が招かれている。彼は撮影クルーに同行し、当時の様子を語りながら、ウォルター・サレス監督や役者たちにアドバイスをする。
彼はまず最初に、自分を演じるロドリゴ・デ・ラ・セルナに対して、自分と話すときに敬語をつかわないように、と注文をつける。これはアルベルト・グラナードらしいな、と感じた。彼とロドリゴの間にある境界を、そこで取り払ってしまったのだ。
彼は撮影クルーを尊重し、そして打ち解けながら、とても親密な関係を築いていく。監督や役者たちと言葉を交わす度に、温もりのある絆で両者が結ばれているのがわかる。このアルベルト・グラナードの言葉や、撮影の様子、ウォルター・サレス監督や役者たちに対するインタビューを交えながら、当時のゲバラとその旅の様子が顧みられている。

南米大陸を巡るゲバラの旅は、一種の通過儀礼となった。その旅を経ることによって、彼は医学生から革命家へと生まれ変わったのだ。そして50年後の現在、当時の問題はそのまま残されており、我々はそこに光をあてて、注目を集める必要がある。と、ウォルター・サレス監督は語っていた。

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1966年生まれのぼくは、革命という夢のあとの世界を生きてきたのだと思う。ゲバラが射殺されたのが67年、あさま山荘事件は72年。あさま山荘事件の様子はTV中継されたので、微かに記憶があるような気もするが、特別な印象はない。
ぼくよりも10歳ほど上の世代になると、あの頃の記憶がはっきりと残されているようだ。昔、職場でキューバや日本赤軍の話を聞かされたことがある。当時、左翼思想に共鳴した人もいれば、右翼を自称した人もいたようだ。ただ当時の思想とは無関係に、今の彼らは革命が過去の夢物語であったと認識している。

革命が幻想であることが明らかになり、共産主義が人間の力では維持することのできない仕組みであることも露呈した。その事実を引き受けつつ、その後のバブル景気にどっぷりと浸かったのがこの国の既得権益層、ぼくを含んだ日本の中高年世代ということになるのだろう。
革命は幻想であり、個人の力など微細なものに過ぎない。だからといって、安易に長いモノに巻かれ、バブルの残骸にしがみつき、なりふりかまわず私益を求めながら、自己保身に躍起になればそれでいいのだろうか。我が身を守るためにあらゆる物事を偽装する人たちの姿勢には強い疑問を感じる。

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20世紀の革命を通して得られたものは、自分が欲するもののために世界を変えることはできない、という事実ではないだろうか。それは、変えるべきものは「世界」や「社会」といった漠然とした他者ではなく、自己の中にあるということを意味しているのだとぼくは思う。世界は変わらないから何もしない、ではなく、自分自身を変えなければならない。「世界」や「社会」とは自分を映す鏡に過ぎないのだから。21世紀の革命とは、他者を変えるために銃を持つのではなく、自己の変革に努めることなのだと思う。

そう自分に言い聞かせることもあるのだけど、なかなか難しいんだな、これが。
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2005年12月22日

「モーターサイクル・ダイアリーズ」 引き裂かれた世界を繋ぐ

ウォルター・サレス監督の『モーターサイクル・ダイアリーズ』を鑑賞。劇場公開以来、2回目となる。若き日のゲバラが辿る旅の過程を描いたロード・ムービー。

motercycle_diaries03.jpg医学生のエルネスト(ゲバラ)は、友人のアルベルトと共に旅に出る。1台のバイクにまたがり、南米大陸を巡るのだ。

ふたりの旅はアクシデントに満ちている。バイクは故障ばかりだし、女と出会えばトラブルが起きる。それでも彼らは危機を切り抜け、使えないバイクを押しながら、貧しい旅を続けていく。
いよいよバイクが鉄の塊と化し、ヒッチハイクによって移動せざるをえなくなる頃から、旅のトーンは変わっていく。

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医学生だったゲバラが、心の中に革命家としての魂を芽生えさせていく過程が後半では描かれていく。彼の心の様子は、ハンセン病療養施設でみせる彼の立ち振る舞いに投射されている。
その施設はアマゾン川によって仕切られていて、患者は川の南岸に隔離されている。そのうえ、患者と接する際に手袋をするという規則がある。にもかかわらず、ゲバラはその境界を越え、患者たちと素手で握手を交わし、挨拶をする。

そしてゲバラの誕生日の晩。施設の人々から祝いのパーティーを開いてもらった後に、ゲバラはスピーチをする。そしてアマゾン川に飛び込み、南岸を目指す。喘息持ちのゲバラにとって、その挑戦は命をかけた宣言だった。
この、決死の覚悟で隔たれた世界へと向かう姿に、革命家としてのゲバラのあり方が集約されているのだと思う。彼は引き裂かれた世界を繋ぎ合わせるために、銃をとり、その命をかけて、革命へと向かったのだ。

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このゲバラの旅から半世紀が経ち、革命という幻想は消え去った。そして世界は今も引き裂かれ続けている。想いをめぐらせながら、映し出される南米の風景を眺めた。それにしても、ラテンの空は美しい。
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2005年12月18日

「暗殺の森」 洞窟の比喩

ベルナルド・ベルトルッチ監督の『暗殺の森』を鑑賞。原題は『IL CONFORMISTA』、英題は『THE CONFORMIST』

conformist04.jpg1938年のローマ。哲学の講師をしているマルチェロは、ジュリアとの結婚を目前に控えている。ファシストの活動員でもある彼は、ある暗殺計画の実行を命じられる。その標的は、かつての恩師であるクアドリ教授。クアドリはファシズムに背を向け、フランスに亡命している。マルチェロはジュリアとの新婚旅行を利用し、パリにあるクアドリ宅を訪ねる。

とても映像が美しく、描かれる世界は現実から浮遊しているように感じられる。その浮遊感は、マルチェロの抱えている生きづらさに重ねられているのだと思う。近代社会の大衆化、均質化は進み、それまで紡がれていた物語は崩壊してしまっている。マルチェロの両親はすでに没落しており、廃人のような暮らしを送っている。浮遊した存在であるマルチェロは、生き延びるため、ファシズムという偽装された物語にすがる。そして中産階級の娘であるジュリアとの結婚によって、彼は大衆化された世界と結びつこうとする。

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クアドリ教授の書斎で行われた、マルチェロとの会話が興味深かった。クアドリはプラトンを引用しながら、マルチェロを洞窟の囚人だと喩える。そしてファシズムは、洞窟に映る炎の影に過ぎないのだと語る。
このやりとを聞きながら、ぼくは洞窟の壁画のことを思い浮かべ、そして映画を連想した。暗闇の中に投射される光によって、幻影を生み出す装置。ベルトルッチもまた、洞窟の囚人だということができるのだと思う。マルチェロとファシズムの関係は、ベルトルッチと映画の関係と重ねられているような気がした。
会話を終えると、クアドリは部屋の窓を開ける。すると光が差し込み、壁に映されていたマルチェロの影が消える。

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この作品は、銃をうまく扱えない男の物語として綴られている。マルチェロは13歳の時、少年性愛者の銃を誤って乱射させてしまい、その経験がトラウマとなっている。そしてクアドリの暗殺を命じられる時に、彼は再び銃を手にする。しかし、彼は銃を持て余すばかりで、うまく扱うことができない。

この後に製作された『ラスト・タンゴ・イン・パリ』も銃を扱う作品だったけれど、その内容は、この作品とは対照的なものだ。このふたつの作品は対になっているように感じられた。

(関連記事:「ラスト・タンゴ・イン・パリ」 娘が父を殺すとき/2005/10/06)
posted by Ken-U at 03:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(その他の国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月16日

「アフガン零年」 終わらない少女の旅

セディク・バルマク監督の『アフガン零年』を鑑賞。

首都カブール。タリバンの圧政下では、身内の男性が同伴しない女性の外出は禁じられていた。しかし長く続いた戦争によって、多くの男たちは命を落としている。残された女性たちは路頭に迷うしかない。

osama00.jpg少女は母親と祖母の三人で暮らしている。父親は戦死した。男のいない家庭では、母親が仕事に出ることもできない。母親は苦慮の末、娘を少年として働きに出すことにする。短く髪を切られ、これから自分が直面するであろう厳しい現実に怯える少女。祖母は彼女にある昔話を聞かせる。虹をくぐることで、少女が少年に、少年が少女に生まれ変わることができるという話。祖母になだめられ、少女は懸命に死の恐怖を乗り越えようとする。

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アフガニスタンが抱える物語について、ぼくは漠然とした印象しか持ち合わせていない。それがとても悲劇的なものだということは分かるけれども、正直なところ、もうひとつしっくりとこない部分もある。例えば、ロンドンで爆破テロが発生し、死傷者が出たと聞くと大きなショックを受けるけれども、同じような事件がカブールで(またはバクダッドで)頻発しているという事実を知らされても、ロンドンの事件から受けるようなショックを感じることができない。アフガニスタンやイラクで発生するテロに関する小さなニュースを目にする度に、その格差のことが脳裏をよぎる。

少年の姿を装った、この少女の命も軽いものなのだと思う。しかし、彼女の姿を追っている間は、その命が危機に晒され、震える様子に心を強く動かされる。

この作品はフィクションだけれども、映像からは強い生々しさが感じられる。それは、タリバン圧政下で起きた現実が、この作品に多く組み込まれているからなのだと思う。作品の冒頭部分をドキュメンタリー的に撮るという演出の効果も大きい。フィクションとドキュメンタリーの境界を曖昧にしながら、観る者を物語の中に引き込んでいく力がこの作品にはあると思う。

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主人公を演じたマリナという少女が素晴らしい。彼女はこの作品のためにスカウトされるまで、物乞いをしながら家族を養っていた。彼女が背負わされているものは、その表情に投影されている。彼女の演技は演技ではないのだろう。彼女の存在は、この作品のラストを変えるほどの影響力があったのだという。

演出の水準がとても高い作品なのだと思う。世界は広い、と感じた。
posted by Ken-U at 15:18| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画(その他の国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月15日

「らくだの涙」 精霊と歌声の繋がり

ビャンバスレン・ダヴァー、ルイジ・ファロルニ監督の『らくだの涙』を鑑賞。モンゴルの砂漠地帯に生きるらくだの母と子、そして遊牧民たちの姿を追ったドキュメンタリー作品。

weeping_camel06.jpgドキュメンタリーといっても、出演者たちが自分自身を演じるセミ・ドキュメンタリーになるのだと思う。カメラワークも洗練されていて、そのスタイルからは西欧の匂いがする。監督のふたりはドイツで映像を学んでいるようで、製作国もドイツだから、西欧人、そして日本人にも馴染みやすい画づくりがされているのだろう。それにしても映像が美しい。

モンゴルの砂漠地帯。遊牧民が飼っている駱駝は出産期を迎え、多くの子駱駝たちが産み落とされていく。その最中、初産を迎えた一頭の母駱駝が難産に苦しむ。やがて、その母駱駝は白い毛に覆われた子供を産み落とすけれど、難産による苦痛のためか、わが子を受け入れようとはせず、授乳を拒絶してしまう。困った飼い主たちは、遠く離れた町から馬頭琴の演奏家を呼び寄せることにする。音楽の力で、母駱駝に愛情を取り戻させようというのだ。

*****

遊牧民にとって、駱駝はとても尊い生き物のようだ。冒頭、モンゴルの駱駝は象やライオンのように強いという言い伝えが紹介される。その昔、神様は駱駝に角を授けたらしい。しかし、狡猾な鹿が駱駝を騙し、その角を奪い取ってしまう。心優しい駱駝はそれでも鹿を待ち続け、いつでも地平線を眺めるようになった。

*****

砂漠地帯での暮らしは厳しいものだ。激しい砂嵐が集落を襲う。テントのような住居の中で、小さい子供が泣いている。暮らしの中に、命を脅かす恐ろしいものがあるのだ。だから彼らは自然界と、そこに宿る精霊を崇める。精霊は、天災や病気から彼らを守ってくれているのだ。大地から富を奪い取るばかりでは、精霊は彼らの許から去ってしまう。だから彼らは自然界と精霊を崇め、祈る。その祈りは馬頭琴の音色に繋がりながら、美しい歌となって、母駱駝の魂を揺さぶる。

ラストの歌声がたまらなく美しい。素朴なものだけども、とても力強く響いてくる。その歌や音楽には呪術的な力が宿っていて、精霊を刺激し、駱駝の母性を蘇らせたのだろう。その過程が見事に映像化されていて、強く引き込まれてしまった。
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2005年12月14日

「ハンター」 狩人になった少年

セリック・アプリモフ監督の『ハンター』を鑑賞。カザフスタンの山岳地帯で暮らす少年が、自然と交わりながらひとりの狩人として成長する過程を描いた物語。

the_hunter02.jpgエルケンは母親とふたりで暮らしている。母親は娼婦をしていて、からだを売りながら息子を養っている。ある晩、ひとりの狩人が客として訪れる。その間、エルケンは家を抜け出し、狩人の馬に跨って、ある事件を起こす。警察に追われる身となったエルケンは、狩人に引き取られることになり、母親の許から去っていく。

狩人はエルケンを馬に乗せ、遊牧民の集落に立ち寄りながら、獲物を探す旅を続ける。呪文や占いなどの慣行が、暮らしの中に深く根付いている。遊牧民の歌からも宗教的な匂いがする。手入れをした馬の身体から微かに立ち上る蒸気にも、神秘的な何かが宿っているように感じてしまう。
山にはオオカミが棲んでいて、人間や羊たちの命を脅かしている。狩人はオオカミのように吠えることができる。彼は自然の中で生き抜く術を示し、それをエルケンに伝えていく。

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中央アジアの山岳地帯が舞台になっているせいか、物語がお伽噺のように感じられた。呪術がちりばめられていたり、物語のところどころに飛躍があったりするせいかもしれない。アンチ・エイジングな仮想世界に身を置いていると、身近なところにオオカミが棲んでいるリアルな世界が神秘的に思えてしまう。

その場所でしか生み出すことのできない映像世界があるんだな、ということを感じた。考えてみると、あたりまえなことではあるんだけど。日頃はついついアメリカやヨーロッパを中心に物事を考えがちだけれども、映画はもっと多様なもので、その中心となる場所など実際にはないのかもしれない。そういう気がした。
posted by Ken-U at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(その他の国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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