2005年11月24日

「SWEET SIXTEEN」 未来を奪われた少年の旅

アフリカからイベリア半島を抜けて、その先に浮かぶ豊かな国イギリスの物語。ケン・ローチ監督の『SWEET SIXTEEN』を鑑賞。

海に近い、スコットランドの田舎町。リアムは学校にも行かず、親友のピンボールと町で煙草売りをしたり、小さな悪事を働きながら毎日をやり過ごしている。母親は刑務所に入っていて、彼は祖父とスタンという母親の男の3人で暮らしている。麻薬の売人であるスタンとはうまくいっておらず、いざこざが絶えない。
ある日、リアムはスタンと大喧嘩をしてしまい、家を飛び出し、姉のところに転がり込む。その姉は家族と別居していて、ひとりで幼い子供を育てながら、まっとうな暮らしを目指しているのだった。

sweet_sixteen02.jpg貧しい町の労働者階級に生まれた15歳の少年リアム。彼の人生からは、あらかじめ多くのものが奪われてしまっている。彼は、生きたままこの世界から隔絶されているようにもみえる。その距離は、彼と母親との距離に重ねながら描かれている。服役中の母親との間に横たわる、絶対的な距離。その距離を埋めるために、彼は声の手紙を録音し、そのテープを母親に送る。さらに、出所を目前に控えた母親の将来について想いを巡らせる。裏社会から切り離された新しい世界で、母親とともに人生をやり直したいと彼は夢見ているのだ。

彼と世界との距離は、「双眼鏡」や「携帯電話」によっても表現されている。
冒頭、彼は星を覗き見ている。暗闇の中に光る土星の姿。きらきらと輝いている世界との絶対的な距離を、彼は感じる。その世界に流れている時間は、リアムの世界のものよりも圧倒的に速いものだという。リアムは、自分の人生が果てしなく長いものだと感じる。
続いて双眼鏡に映し出されるのは闇の世界。といっても、それは宇宙ではなく、すぐそこにある麻薬売買の世界である。リアムは、母親と暮らす新居を購入するために、その闇の世界に足を踏み入れることを決意する。

*****

闇の世界から母親を救い、自分の人生を立て直すために、リアムは闇の世界に足を踏み入れる。矛盾を孕んだ彼の企ては、うまくいくようにも思えたが、現実はそう甘くはなかった。彼に突きつけられた結末は、あまりにも残酷なものだ。肉眼では見ることのできない母親との絶望的な距離を、彼は思い知らされてしまう。

さらに闇の世界は、彼に残されていた僅かなものをも奪ってしまう。ラストを眺めていると身につまされる。彼が手にしている携帯電話と繋がるもの。そこから聞こえるかすかな声。なにもかもがリアムから遠ざかってしまった。目の前に広がる冷たい海が意味するもの。そこから未来を見出すことが彼にできるだろうか。16歳の誕生日を迎えた彼にできるのは、その海を呆然と眺めることだけなのかもしれない。そこから始まる新たな旅の行く先は、彼自身にも見えてはいないのだろう。
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2005年11月17日

「そして、ひと粒のひかり」 終わらないマリアの旅

秋晴れ。空高し。渋谷で映画。ジョシュア・マーストン監督の『そして、ひと粒のひかり』を鑑賞(official site)。原題は『MARIA FULL OF GRACE』。水曜日は1,000円。

この『そして、ひと粒のひかり』は、ジョシュア・マーストン監督の長編デビュー作だそうだけど、とても処女作とは思えないような素晴らしい作品だった。それになんといっても、主役のマリアを演じているカタリーナ・サンディノ・モレノが素晴らしかった。とても表情に深みがある女優だと思う。彼女の表情を追っているだけで、物語の中にぐいぐいと引き込まれてしまった。

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maria.jpgコロンビアの小さな町で、マリアは暮らしている。彼女は花農場で働いていて、薔薇の棘を抜き、花束をつくる作業をしている。その作業には厳しいノルマが課されていて、職場では、管理者の許可無しにはトイレにすら行くことができない。過酷で、単調な毎日が続く。彼女はこの仕事から得られる収入で、家族の生活を支えている。

苛酷な環境の中で、マリアは懸命に生き延びようとしている。にもかかわらず、家族や恋人とはすれ違いがちで、しばしば衝突してしまう。彼女には自分の居場所がないのだ。苛立ちを抑えきれないマリアは、自身の妊娠をきっかけに、恋人と別れ、職場でも揉め事を起こして、ついには仕事を辞めてしまう。その結果、マリアはさらなる窮地に追い込まれるのだった。
途方にくれているマリアのもとに、麻薬の運び屋の話が持ち込まれる。カネのために、彼女はその話を受け入れる。そこから、彼女の新たな旅が始まる。

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マリアは繭のようなかたちをした白いゴムの袋を62個も飲み込み、富める人々の暮らすニューヨークへと向かう。ぼくはその過程を固唾をのんで見守るわけだけども、その演出が絶妙で、物語の中に深く引きずり込まれてしまった。物語の展開には緩急がとてもうまくつけられていて、そのリズムとともに移り変わるマリアの表情がとにかく素晴らしかった。

豊かな世界が豊かであり続けるためには、貧しい世界は貧しくあり続けなければならない。貧しい世界の住人は、生きながら食い物にされている。その過酷な運命を乗り越え、生き延びるために、貧しい世界を抜け出して、豊かな世界へ向かおうとする人たちがいる。しかし彼らは、豊かな世界で少しのものを得るために、多くのものを失わなければならない。マリアの旅を通して、その過酷な現実を垣間見ることができたような気がした。これからもマリアは命がけの選択を繰り返しながら、過酷な旅を続けていくんだろう。
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2005年10月15日

「父、帰る」 父の不在を乗り越えるために

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の「父、帰る」を鑑賞。先日観た「ラスト・タンゴ・イン・パリ」と同じように、この作品からも通過儀礼的な匂いが感じられた。青みがかった映像は絵画のようで、この物語の寓話性がより高められているようだった。

ゆらゆらと揺れている湖面。湖の底には1艘の舟が沈んでいる。少年たちは鉄塔から湖へと勢いよく飛び込んでいく。兄のアンドレイも飛んだ。しかし弟のイヴァンは飛ぶことができない。怖いのだ。彼は最後まで鉄塔の上に残り、がたがたと震えている。

the_return01.jpg父親の不在の中、母と暮らす日常の中に、いないはずの父親が突然現れる。その男は、12年間どこで何をしていたのかも判らないような、得体の知れない存在として描かれている。父親の帰宅を告げられた息子たちが寝室を覗くと、男が死体のような姿で眠っていて、そのショットはとても印象に残るように撮られている。

そして父と息子たちは旅に出ることになる。この旅が子供たちの通過儀礼として描かれている。息子たちは超越的な存在である父親と直面し、葛藤する。そしてゆるやかに流れる父と子の物語は急展開しながらラストへと至る。
息子たちは乗り越えるべきものの存在を知らされ、再び父親から放り出されてしまう。あるいは、少年が大人になるために、父親を殺したのだと捉えることもできるだろう。

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英題は「THE RETURN」。ロシア語が解らないので原題「VOZVRASHCHENIYE」の意味が解らないけど、たぶん英題と同じような言葉なんじゃないだろうか。
「THE RETURN」とは、邦題にあるような「父の帰宅」という意味もあるんだろうけど、死霊の世界から戻ってきた父親が、再びあの世へ戻っていくという意味もあるんだろう。現れる時と去る時の父親のショットや、魚を料理するときに交わされる言葉のやりとりなどから、それを強く感じた。臆病な息子の姿を見るに見かねて、父親ははるばるあの世から戻ってきたのだ。

臆病で幼稚なくせに、反抗的で口答えばかりしているイヴァン。この旅を通して、彼は何を得たんだろう。1艘の舟が沈んでいる湖の中に、彼は飛び込むことができるようになっただろうか。父親と再会するため、あるいは父親を乗り越えるためにも、彼は飛ばなければならないような気がする。
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2005年10月12日

「娼婦たち」 複雑で深淵な世界

渋谷のUPLINK Xでルナ監督の「娼婦たち」を鑑賞。水曜は1,000円。

先日、飲み友達のひとりがスペイン旅行から帰国した。早々に呼び出されたので、飲みながら彼女の土産話を聞いた。マドリッドの知り合いの家を拠点に、スペインのいくつかの都市を回ったようだ。
彼女の話によると、マドリッド以外の町は楽しめたようだ。しかし、いちばん長く滞在したマドリッドはいまひとつだったらしい。というのも、町の暗部が通りのあちこちに露出していたからだという。その”暗部”の代表が物乞い、そして娼婦たちの存在だ。とくにマドリッドの路上では、娼婦たちの姿が目立っていたようだ。

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yo_punta00.jpgこの「娼婦たち」は、フィクションを交えたセミ・ドキュメンタリーの体裁をとっている。作品の大半は、実際の娼婦たちがカメラに向かって仕事について語っている映像をコラージュしたもの。その中に、女優が演じるフィクションが挿入されている。出演している女優が、ダリル・ハンナとデニス・リチャーズという組み合わせ。やけにそれっぽいキャスティングだ。登場する娼婦たちのほとんどはスペインで仕事をしている。それにフランスや他のヨーロッパ、特に旧東欧諸国の娼婦たちが登場する。

作品としてはどうだろうか。カメラの前で、娼婦たちが自分自身を演じることによって、彼女たちの表層的な姿しか見えなくなっているような気がした。ナマの部分は隠されたままで、よそ行き用に取り繕った姿が表現されているような印象を受けた。挿入されたドラマもあまり効果的ではなかった。残念ながら、観ていてあまり映画という感じがしなかった。

残念ながら、ぼくには娼婦の友人がいないので、この作品を鑑賞することで彼女たちの世界を垣間見ることができるかと思ってたけど、その思惑ははずれてしまった。それにしても、出演している娼婦たちは綺麗な人ばかりだったな。

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UPLINK Xは初めてだったけど、こじんまりとしたいい劇場だった。床の上にイスが並べられ、前には小さ目のスクリーンが垂れ、スピーカーが並んでいる。それだけのシンプルな空間だったけど、隣も気にならないし、中途半端な劇場よりはずっと快適だった。

鑑賞後は下のカフェでブランチ。タイカレーをいただいた。劇場でもらえる割引券で200円引きとお得。食後、ミルクティーを飲みながら、読みかけの本を読み進めた。娼婦についてはこっちの方が断然面白い。読み終えたら雑感を書き留めようと思う。
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2005年10月06日

「ラスト・タンゴ・イン・パリ」 娘が父を殺すとき

ベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラスト・タンゴ・イン・パリ」を鑑賞。娘が大人になるための、通過儀礼を描いた物語。

last_tango_in_paris_01.jpgジャンヌはパリで古いアパルトマンを見つける。部屋に入ると、彼女の中に少女時代の記憶が甦ってくる。古くてかび臭い家の思い出。そして父親の面影。軍人だった彼は、アルジェリアで戦死している。
光を求め、窓を開けると、差し入る光の先に男が立っている。その得体の知れない中年の男は、死霊の世界から甦ってきた父親のように見える。ふたりは短い言葉を交わし、不意に交わる。

父親の死とともに欠けてしまったものを、ジャンヌは埋め合わせようとしている。男とは互いのことを何も語らずに、繰り返し、あの部屋の中で肉体を貪り合う。
印象的なのは、実家に戻って、父親の軍服を身にまとうシーン。彼女は父親の拳銃を手に取る。そして銃口を母親に向ける。少女の頃は、とても重く感じたはずの拳銃。彼女はそれを操れるようになっている。拳銃が象徴するもの。大人になった彼女は、やがて自分の中の父親を撃ち殺すことになる。

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アパルトマンの床の上。男はジャンヌをうつ伏せにして、彼女のジーンズを下ろす。そしてアナルにバターを塗りつけ、ジャンヌの上に覆い被さりながら、腕を押さえつける。そして犯す。ゆっくりと腰を動かし、タブーとされる領域を犯しながら女に言わせる。「抑圧で意思は打ち砕かれ、自由は抹殺される」

ポールも重いものを抱えている。自分を抑圧していたアメリカを捨て、パリに辿り着く。そして娼婦が利用するような貧しいホテルの女主人と結婚する。しかし、彼は妻を失ってしまう。バスルームが血で染められている。彼は神の不在を強く感じる。彼が抱えてしまったものが、彼自身を突き動かしている。その衝動が、ジャンヌの肉体へと向かわせているんだろう。

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アパルトマンの部屋は、死霊が棲む闇の世界と繋がっている。部屋の中で狂ったセックスを繰り返すうちに、彼女がヘア・スタイルをソバージュに変えるのが面白い。少女時代に親しかった教師の名前もソバージュ。彼女は闇の世界と交わりながら、自分の中の野生を目覚めさせているということだろう。彼女にとって、得体の知れない中年男と肉体を交えることは、通過儀礼のようなものなのかもしれない。その通過儀礼の最終段階として、ふたりは最後のタンゴを踊る。タンゴは一種の儀式のようなものだというセリフが、その位置づけを裏付けているように思う。

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ずいぶん昔に観たときよりも、この作品を楽しめたような気がする。少し前に観た「シェルタリング・スカイ」は面白くなかったけど、あれも女性の通過儀礼を描いた物語だったんじゃなかったっけ。それにしても、この作品のマーロン・ブランドは素晴らしい。彼の表情を観るだけでもじゅうぶんに価値があると感じられる作品だと思う。

(関連記事:「暗殺の森」 洞窟の比喩/2005/12/18)
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2005年08月26日

NO FUTURE FOR YOU

台風接近中。でも台風や自民党の分裂選挙はさておき、ジュリアン・テンプル監督の「NO FUTURE A SEX PISTOLS FILM」を鑑賞。ロンドン・パンクの象徴であるセックス・ピストルズのドキュメンタリー・フィルム。2000年公開の作品。

filth_and_fury.jpgジュリアン・テンプルがピストルズのドキュメンタリーを撮るのは2度目。1作目は「グレート・ロックンロール・スウィンドル」。マネージャーだったマルコム・マクラレンの視点から、いかにピストルズがクソでデタラメだったかっていう回想をしてる。その根性のひん曲がり具合がイギリス的っていうかパンク的っていうか、観てて痛快だった。個人的にはあっちの方が好きなんだけど。
ところで、どうしてジュリアン・テンプルは2作目を撮る気になったんだろう?1作目はふざけ過ぎたってことで反省でもしたのか?

この「NO FUTURE …」は、バンド側の視点からセックス・ピストルズという現象を振り返っている。
70年代末のロンドンで湧き起こった、台風みたいなムーヴメント。その台風がロンドンで猛威を振るったのは、わずか1年半足らず。その後アメリカ大陸で減速し、遂には消滅する。結成からわずか2年ほどで解散してしまったのだ。

ロンドン・パンクについては、その当時のイギリス社会を取り巻く環境のこととか、もうさんざん言い尽くされてるって気がする。"美しくないものこそが美しい"と叫ぶことができた2年間だったってこと。

ぼくの年齢では、リアル・タイムでロンドン・パンクを感じることはなかった。その後、自分から聴くこともなかった。周囲にはハマってるヤツもいたけど、そいつらが煩わしかった。ぼくはどちらかというとニューヨーク・パンク派だったから。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやイギー・ポップからの流れもあるし。やっぱりパンクっていうことでは、ニューヨーク・ドールズやリチャード・ヘルがオリジナルなんじゃないかって感じで。

*****

ピストルズっていうと、古い友人のことを思い出す。小学生の時から中学時代までかなり仲良かった男。ヤツは高校に入ってからピストルズにハマった。どうしようもないダメ高校でパンク・バンドやってた。ヤツは小学生の時、熱狂的な山口百恵ファンだったんだけど、それは秘密にしておく。中学の時には一緒にブルース・ブラザースにハマったんだった。
続きは私的昔話をダラダラと
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2005年08月02日

「ライフ・イズ・ミラクル」 知性を超えて生きる

今日は映画サービス・デー。銀座でエミール・クストリッツァ監督の「ライフ・イズ・ミラクル」を鑑賞(official site)。正直いって、評価は分かれると思うけど、ぼくにとっては期待通りの素晴らしい作品だった。

life_is_a_miracle.jpgクストリッツァ作品って、とても音楽的だと思う。それは、音楽による演出が効果的になされているっていう意味じゃない。確かに音楽も素晴らしいんだけど、それ以上のなにかを感じさせる。物語そのものが、お行儀のいい理論で構築されているんではなくて、それを超えたところで鳴り響いているっていうか。その音楽的物語は、豪快さと繊細さが絶妙なバランスで混ざり合いながら創造されているから、旋律やリズムはとても大胆で刺激的なんだけど、観る者の魂にはとてもやさしく響いてくる。

スクリーンに映し出される人々や動物たちが、とても野性的で生き生きと描かれている。熊は人間を噛み殺し、鷲は鶏を食らう。猫は人間の食い物を奪い、犬と互角に闘ってみせる。国家は戦争に突入し、兵士達は命を奪い合う。そんな叫び声や爆音が鳴り響く剥き出しの世界の中で、男と女は歌い踊り、恋に落ちては交わりあうのだ。

*****

92年のボスニア。セルビアとの国境に近い山村で、鉄道技師として働いているルカ。彼はとても善良な男で、心から鉄道と彼の家族を愛している。妻のヤドランカは元オペラ歌手。ひとり息子のミロシュは読書好きのサッカー選手だ。
以下はネタバレあり
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2005年07月26日

「裏窓」 モダンな社会の結婚をめぐって

アルフレッド・ヒッチコック監督の「裏窓」を鑑賞。さすがヒッチコック作品。20年以上ぶりに観たけどかなり楽しめた。

"理性ほど人間に厄介なものはないわ 現代の結婚"

"昔は一目見て惚れたら結婚
今は本を読み 難しい言葉を並べてお互いを分析し
揚げ句の果てには好きと嫌いの区別もつかない"


rear_window.jpgアパートで独身生活を送っているL.B.ジェフリーズ。彼は脚を骨折していて、車椅子生活を送っている。部屋の中で暇をもてあましている彼は、向かいのアパートで暮らす人々の姿を覗き見ながら、日々をやり過ごしている。

カメラマンの彼にはとても美しい恋人、リザ・キャロル・フレモントがいる。彼女は結婚したがっているんだけど、ジェフリーズは拒み続けている。裕福な家庭で育ったリザと自分では、夫婦として釣り合いがとれないと考えているのだ。それにカメラマンとして、自由に仕事ができなくなると考えている。
上の引用は、彼の面倒をみている看護師が彼に浴びせたセリフだ。戦後社会の近代化には拍車がかかっていて、人々はより自由な個人として生きたがっている。ジェフリーズもそのひとりだ。ぼくとしても身に覚えがあるから、このあたりは耳が痛いところ。

向かいのアパートで暮らす人たち。入居したばかりの新婚夫婦もいれば、孤独に暮らす独り身もいる。その対比がとても印象的に描かれていた。
そのアパートに暮らす、ある夫婦の異変にジェフリーズが気づくところから、物語が展開していく。ジェフリーズは妄想を膨らませ、周囲の人々をある事件へと巻き込んでいくのだ。

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ラストの展開はすっかり忘れてて、観ていてハラハラさせられた。カメラ・ワークも素晴らしい。向かいのアパートを覗き見ながら妄想を膨らませるジェフリーズと、映画を観て想いを膨らませるぼくの姿が重なってしまう。いや、グレイス・ケリーが足りないな...

この「裏窓」は54年の作品。先日観た小津作品「お茶漬の味」('52)とほぼ同時期に制作されている。扱っているテーマにも共通点があった。戦後に加速した家庭崩壊の始点を描いているというか。「お茶漬の味」は家庭から解放されたがっている女性の物語。この「裏窓」は、自由のために結婚しない男と、なにかしらの理由で妻を殺してしまった男の物語。家庭から解放されたがっているは男の方だ。当時から洋の東西を問わず、社会が抱えている問題は通じているってことなのかな。

(関連記事:「お茶漬の味」 共同体崩壊の始点を描く/2005/06/28)

*****

ラストの向かいのアパートの様子は、ハッピーエンド的に描かれている。そしてカメラはジェフリーズの部屋の中へ。思わずぼくは、雑誌(Harper's Bazaar)を眺めているリザの左手薬指に注目してしまった。そこに指輪を見つけようとしたのだった...
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2005年06月30日

嘘の世界を生きたファンタジスタ

fellini.jpg日本映画の巨匠の次は、イタリア映画の巨匠。録画しておいた「フェリーニ 大いなる嘘つき」を観た。正直いうと、ぼくはイタリア映画とあまり相性がよくないと思っている。フェリーニ作品も、ずいぶん前に数本観たけどもうひとつピンとこなかった。それでもなんとなく興味が残るという、不思議な存在感のある映像作家だ。

このドキュメンタリーを制作するにあたって、晩年のフェリーニに長時間のインタビューをしたようで、その映像を中心にしながらこの作品は構成されている。フェリーニ自身が、彼の創造に対する思いを語っていて、それがとても面白かった。そこに彼の作品の断片や、出演した俳優、撮影スタッフなどの証言を挿入することで、このイタリア映画史に残る巨匠の姿を立体的に浮かび上がらせようとしている。

この作品を観ていて浮かんだ言葉は「ファンタジスタ(fantasista)」。彼は自分が創り出した虚構の世界の中を生きた人なんだな、ということを再認識した。過去や現在、未来といった時間の流れから解放されることを望み、現実と幻想の境界を曖昧にしつつ混沌とした無意識の世界に迫り、即興的な演出を駆使しながらそれを映像化しようとしている。そして自分が創り出した、その嘘の世界の中でしか生きられなかった人のように感じられた。

残念だったのは、サーカスに対する彼の想いが聞けなかったこと。自由な世界を生きる人々が魅せるアクロバット芸に、彼はとても興味を持っていたはずだ。そのあたりの話が聞きたかった。

*****

ぼくがイタリア映画にもうひとつ入り込めないのは、イタリアは強いマザコン社会だということもあるのかもしれない。イタリア男は、一生マンマのおっぱいから離れられずに生きているというイメージがある。フェリーニ作品に出てくる女性たちも、そういうイメージを連想させる。いわゆる巨乳女優が強調されて起用されている。そういうところがちょっと...

しかし、創造者としてのフェリーニにはやはり興味があるので、これを機会になにか作品を観てみるか。できるだけ幻想劇でエロティックな作品がいい。「道」みたいな作品じゃなくて。そういう意味では、「魂のジュリエッタ」あたりがいいんだろうか。
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2005年06月23日

「子猫をお願い」 余韻を残す青春群像劇

takecareofmycat1.jpgチョン・ジェウン監督の「子猫をお願い」を鑑賞。余韻を残す青春群像劇。


5人の女の子の高校卒業後を描いた物語。ソウル郊外のインチョンという街にある商業高校で、5人は親友同士だった。高校を卒業し、それぞれの道を進みながらも、彼女たちは付き合いを続けている。

裕福な家庭で育ったヘジュは、コネで証券会社に就職し、OL生活を満喫している。その一方で、ジヨンは就職先も見つからず、将来に不安を抱えたままだ。彼女は両親も亡くしていて、祖父母のもとで貧しく暮らしている。対照的な生活を送るふたりの間には、見えない溝ができつつある。

そのふたりを繋いでいるのが、5人の連絡係を務めるテヒ。彼女の実家はサウナを経営しているが、彼女自身は就職せず、ボランティアをしながら自分の将来を案じている。5人の関係に限らず、テヒは様々な垣根を越えて繋ぎ合わせようとする。障害者と健常者、ブルーカラーとホワイトカラー、そして塀の向こうとこちら側など。そして無謀にも船乗りになろうと考えたり。とても魅力的なキャラクターとして描かれている。

ジヨンの家で不幸があり、ジヨンを取り巻く環境は悪化してしまう。そこから物語のトーンも変わっていく。人生に絶望するジヨンを、テヒはなんとかこの世界に繋ぎとめようとする。

*****

女性監督ということで、女の子の描き方がさすがにうまいと思った。ヘジュ、ジヨン、そしてテヒの姿にリアリティーが感じられる。双子のピリュとオンジョもいいアクセントになってるのかな。ヘジュが同僚と友達を天秤にかけながら、友達に嘘をつくところなんてちょっと生々しい。そういうディテールの演出にも気配りが感じられる。

何不自由なく暮らしているようで、それなりにいろいろあるヘジュ。ジヨンと共に、新しい世界を見つけようとするテヒ。やけに似ていて笑ってしまう双子。それぞれの人生はこれからも続いていく。悲喜交々というか、なんかしんみりとした余韻を残す良作だった。
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2005年06月20日

「オールド・ボーイ」 痛みが連鎖する復讐劇

oldboy.jpgパク・チャヌク監督の「オールド・ボーイ」を鑑賞。胃腸の調子が万全じゃない状態で観る映画じゃなかったかもしれない。サービスだからって、調子にのって飲み過ぎてちゃいけない。

節操なく飲み歩いて泥酔してしまったオ・デス。彼は帰宅前に突然その姿を消してしまう。何者かに監禁されてしまったのだ。オ・デスは密室の中に閉じ込められ、現実とも幻想ともつかない毎日を送ることを強いられる。そして15年が経過し、彼は突然開放される。"自由の身"となった彼は、監禁の謎を解き明かしながら、自身の自由ばかりか、家族の命をも奪った犯人への復讐を誓う。

*****

画づくりが印象に残る作品だった。その映像表現の中でとくに印象的だったのは「痛み」。殴られたり、刺されたり、歯を抜かれたり。そういう「痛み」を表現するためのショットが執拗に繰り返し描かれている。そしてその痛みが、愛する人を失った者が抱えてしまう「痛み」へと繋がっていく。そういう「痛み」の連鎖を描いた復讐劇だった。

生き延びるための支えについて、考えさせられるところがある。生きる支えとして何を選ぶのか。多くの人にとって、愛憎は強い支えとなるだろう。またその一方で、それらを排除しながら乾いた人生を送る人々には、どういう選択肢が残されているのだろうか。中にはオ・デスのように、自覚の無いまま自身の支えを選ぶことになる人間もいるのだろう。

話を作品に戻す。この復讐劇の発端になった些細な出来事や、ラストの描き方については評価が分かれそうな作品だと思った。そこが、物語としてはとても重要な部分になるのだとは思うけれど...ぼく自身は、その部分がちょっと薄い作品だとは感じた。しかし、映像の力でその弱点をうまく埋めようとしている。ということで、まずまずの良作なんじゃないだろうか。
posted by Ken-U at 20:20| Comment(1) | TrackBack(3) | 映画(その他の国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月19日

「SUPER 8」 It's unza unza time!

unzaunza02.jpg昨夜、寝る前にエミール・クストリッツァ監督の「SUPER 8」を鑑賞。クストリッツァ氏がギタリストとして参加しているノー・スモーキング・オーケストラというバンドのドキュメンタリー・フィルム。

観ているとこのバンドの世界にぐいぐいと引き込まれてしまう。鳴り響く音楽はジプシー調というかボヘミアン調というか、そういう類の"unza unza"なグルーヴが基調になっている。そしてロックやらジャズやらを手当たりしだいにぶち込んでみたといった雰囲気。これが最高に気持ちいい。バルカン半島の複雑さというか、懐の深さのようなものを思い知らされる。

ライブ映像の合間には彼らのコントやインタビュー映像が挿入される。彼らは「まさに芸能民」といったエネルギーを発散させている。音楽って素晴らしい。音楽に奉仕していると、様々なものが掴めるんだという事がわかる。なにか本質的なものに触れているような人々。学者には触れることのできない世界に直接触れながら、彼らはその魂を躍動させている。

自由な空間に生きる人々にしか生み出すことのできないなにかが、彼らの作品の中にはあるような気がした。そして自由に生きるということは、言葉では表せないものを背負うということだと感じた。自分の意思で選ぶ生き方ではないんだろう。選ばれるというか、選ばされるものなんじゃないだろうか。
posted by Ken-U at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(その他の国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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