2005年05月12日

「パパは、出張中!」 クストリッツァ的愛憎劇の原点

ぼくにとって、エミール・クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」はベスト・ムービーのひとつだ。最初に劇場で観た時はショックを受けた。ぼくが何かの間違いでああいう映画を撮ってしまったら、その後の人生でやることがなにも無くなってしまうだろうなんて無駄なことを考えた。そして「アンダーグラウンド」以降のクストリッツァ監督がどうなってしまうんだろうか、なんておせっかいな心配をしてみたりして、「黒猫白猫」を観た時はなにか少しほっとしたのを憶えている。彼はなにかしら信用のできる監督だと思う。この夏には新作「ライフ・イズ・ミラクル」の公開が控えている。とても楽しみ。

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kusturica01.jpgで、先日録画しておいた「パパは、出張中!」を鑑賞。85年の作品。舞台は50年代のユーゴスラビア。当時のチトー政権下で、政治に翻弄されながらも力強く生きる人々の姿を描いている。

少年マリクの父親ミーシャは、不倫相手の裏切り行為によって投獄されてしまう。反政府発言をしたことがその理由らしい。というか、「奥さんといつ別れてくれるの?!」みたいな痴話喧嘩から、女にちょっとした言葉尻をとられて義兄に密告されてしまったというのがその真相。妻セーナはマリクに対して、父親は出張中で留守にしていると嘘をつく。そしてその元愛人はミーシャの義兄と結婚する。

この「パパは、出張中!」は「アンダーグラウンド」の原型のような作品だった。チトー政権下で様々な困難に直面しながら生きる人々。その世界には裏切りや、そこから生まれる罪の意識、憎しみ、そして許容といった感情が入り乱れている。そこには「アンダーグラウンド」のような突き抜けた生命の躍動感はみられない。ほのかなユーモアはみられるけれど、どちらかというと淡々としたトーンで、父親やその妻、息子それぞれの視点からこの愛憎劇を描いているといった印象を持った。

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2005年05月10日

「永遠と一日」 一生どこにいてもよそ者

昨日の夜は咳もでてしまっていたので、今日はうちでおとなしくしていた。ランチと、スーパーに夕飯の材料を買出しに行ったくらい。月が新月のギリギリ手前ってところまできていた。かろうじてそこにあるのがわかるくらい。そして妙に赤みがかっていた。

なぜかチェックしていたので、録画しておいた「永遠と一日」を観た。テオ・アンゲロプロス監督の98年の作品。ヨーロッパの巨匠にありがちな、「孤独を抱える芸術家なわたし」を描いた作品。古めかしさも感じてしまうし、これがパルム・ドールを獲ったというのは意外。功労賞的な意味合いかな。

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eternity_and_a_day3.jpg老作家アレクサンドレは、病気のため死に直面している。人生の最後に至るまで、自分の居場所を見つけることはできなかった。これまで彼は「言葉」にそれを求めてきた。すべてを犠牲にして創作に没頭してきたが、結局探している言葉は見つけることができなかった。所詮、下書きのような作品を書き散らしてきたに過ぎない。家族のことも顧みてこなかったため、唯一会うことのできる娘との間にも埋められない溝がある。もう取り戻すことのできない妻や母親との過去。彼は失ってしまった家族の幻を見るが、過去を修復することはできない。

この退屈になってしまいがちな物語を救っているのが、ギリシャ系アルバニア難民の少年の存在だと思う。アレクサンドレは、ある事件から彼を救い出す。それは少年に対する優しさというより、孤独で居場所のない自分自身を、難民として生きる少年の姿の上に重ねてしまったからだろう。確かに芸術家と難民の間には、共通するなにかがあるのかもしれない。

最初は少年を故郷に返そうとするアレクサンドロも、やがて少年を手放すことができなくなってしまう。死を目前にして、彼にはもうほかに何も残されていないからだ。彼と少年は、どこにいようが一生よそ者であり続けなければならない。

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脳科学的には、あまり創造的な作品ではないってことになるな。まあ非科学的にもそうだろう。しかし老いてしまうということの意味を、ぼくはまだ理解しているわけではない。わけもなく、首を吊ってしまったジャック・マイヨールのことなんかを連想してしまう。自由に生きるってことはたいへんなことだな。好き好んでやることじゃない。
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2005年04月17日

「LIVE FOREVER」 もう終わってしまった

live_forever.jpg「リヴ・フォーエヴァー」を鑑賞。ジョン・ドウワー監督。イギリスの90年代を振り返りながら、あのブリット・ポップのブームの背景を検証するドキュメンタリー。

とりあげられているのは89年デビューのストーン・ローゼズあたりから。でも少しだけ。そしてアメリカからグランジが上陸する。が、ここではニルヴァーナ以外はクソだったと切り捨てられる。そして94年のカート・コバーンの死によってそのグランジも終わってしまう。そして登場するのがオアシスとブラーという流れ。あとはオアシスを中心に、当時の映像や関係者の証言などを繋ぎ合わせている。

ぼくとしては、確かにグランジもクソだったろうけど、あのマッドチェスターのドサクサで出てきたバンドにもクソが多かったと思ってしまう。まあぼくが歳をとっていたということもあるのかもしれないけど。そんなぼくも、ハッピー・マンデイズ(この作品にはでてこない!)と共に90年代が幕を開け、その後オアシスで盛り上がった記憶はある。このふたつのバンドが90年代だったな。

サッチャーが79年に政権をスタートさせて以来、10年以上続いた保守政権がもたらした社会の閉塞感。その空気を変えようとしたのが、このブリット・ポップの大ブームだったとここでは捉えている。特に個性が破壊され、均質化されていった地方都市からの異議申し立てとしてのロック。その象徴的な存在であり、労働者階級を中心に絶大な支持を受けたオアシス。そのオアシスも97年に去勢されてしまう。"去勢"されるブリット・ポップの象徴的な映像として、97年英総選挙の際の映像が紹介される。労働党が主催するパーティーに、ノエルがノコノコと顔を出して、ブレアと談笑している映像。そしてあの大ブームは終焉を迎えてしまったという結末...

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2005年03月29日

「オアシス」 境界的世界の純愛物語ふたたび

oasis.jpg今日も暗くて寒い。おかげで静かに映画鑑賞できた。「オアシス」イ・チャンドン監督。「悪い男」に続いて、境界的世界に生きる男女の純愛物語を描いた作品。乾いた世界の辺境に浮かぶオアシスで男女が愛し合う姿はとても美しかった。

ジョンドゥは清掃員を轢き逃げした罪による2年半の刑期を終えて出所する。これで暴行、強姦未遂とあわせて前科3犯になる。いい歳をして(たしか30歳)、ナイーブ過ぎるジョンドゥは社会にうまく適応することができない。それで娑婆と刑務所の間を行き来してしまっている。

ある日ジョンドゥは死んだ清掃員の家へ見舞いに行く。そこで娘のコンジュと出会い、一目惚れをする。コンジュは脳性麻痺で、兄夫婦とも離れ、独りで暮らしている。彼女も社会から疎外された存在として描かれている。

ジョンドゥはコンジュの家に忍び込み、自分の気持ちを伝えてコンジュの素足にキスをする。そして抱きしめて愛撫するうちに興奮し、コンジュを犯そうとする。この行為は未遂に終わるが、感情を剥き出しにしたジョンドゥの行為はコンジュの心を開いた。やがて彼女はジョンドゥを受け入れ、ふたりは愛し愛される関係になる。

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2005年03月25日

「永遠のハバナ」 続く人生

havana01.jpg渋谷ユーロスペース、レイト・ショーにて「永遠のハバナ」を鑑賞。続くハバナの日常を描いたセミ・ドキュメンタリー作品。

この作品の出演者はハバナに住むごく普通の人々だ。彼らの日常、夜が明けてから翌朝までの約24時間を、セリフをほとんどつかわずに映像と音によって綴っている。音楽も必要最低限。特に前半はほとんどつかわれていない。そのかわりに、工場や工事現場の機械音、教室の子供達の声、職人の手から小気味良く聞こえる布や革、ナイロンが擦れ合う音など、ハバナの街中で鳴っている日常の音同士をリズミカルな音楽のように響き合わせている。そのリズムの躍動の中で、ハバナの人々が闊歩し、労働している姿は、ダンスをしているように目に映る。

日が暮れると、人々は仕事を終えて街にでる。そこからがキューバ音楽の出番だ。TVに映し出される演奏を見つめる老女。ダンス・ホールで華麗にダンスを踊っている靴職人。人々はそれぞれのやり方で音楽に身をゆだねている。

しかし人々が暮らす姿は決して華やかなものではない。人々は皆貧しい生活を送っている。出稼ぎに発つ男は、涙を流しながら家族との別れを惜しんでいる。子供の面倒をみながら、亡き妻の墓へ花を捧げる男もいる。街角でピーナッツを売りながら日々をやり過ごしている老女もいる。

それでも日は暮れ、また昇る。人々は夢を見ながら生きていく。それだけを描いた作品だ。それだけなのに、エンディングではわけもわからず涙がこみ上げてしまう。ヴェンダース的な視点とは違う、観光では見る事のできないハバナを見ることができた。そういう作品だった。

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2005年03月22日

ヴァンダの部屋 運命に溺れる人達

vanda.jpg今日は天気が悪く、1日中どんよりと薄暗かった。そして「ヴァンダの部屋」を鑑賞。ペドロ・コスタ監督。スラムに住み、野菜の行商をしながら生活するヴァンダとその周囲の住人達の姿を描いたセミ・ドキュメンタリー。絶望的な世界を淡々と描いた映像はあまりにも美しく、人々は詩を読むように言葉を交わしている。

ヴァンダたちは皆、麻薬に溺れながら生き延びている。麻薬が身体を侵し、命を縮めてしまうということは彼らにも理解できているだろう。それでも彼らはヘロインやコカインを打ち、吸引し続けるしかない。命ある限りそこから逃れることができないという絶望感が伝わってくる。

ヴァンダたちの人生は、彼らが住むスラムの姿とも重ねられている。この貧者達が住む場所は、強制撤去の工事に晒されている。住居の壁が工事によって破壊され、轟音とともに瓦礫となっていく。その破壊音が彼らの日常の上に重ねられている。そしてその音は刻々とヴァンダの部屋へと迫っている。ヴァンダや住人達は、そこでなにが起きているのかを知っているが、どうすることもできない。

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2005年03月13日

「メイキング・オブ・ドッグヴィル 〜告白〜」

makingof_dogville00.jpgラース・フォン・トリアー作品の舞台裏を収めたドキュメンタリー。
彼がどうやって映画づくりをしてるのかと思い鑑賞。

極端に内向的で他人とコミュニケーションがとれないタイプというのは予想通り。いや、彼は想像してたよりも重症だった。出演している俳優達との断絶はとてつもなく深い。

ある俳優は監督の印象についてこう呟く...

心に傷を抱えたすごく頭のいい子供が
ドールハウスで人形遊びをするうちに
爪切りで人形の頭を切断する姿


他にも頭のおかしい監督とは二度と仕事はしないと告白する俳優もいた。ニコール・キッドマンも予想以上に追い込まれ、消耗しているようだった。特に主演女優にとっては厳しい。プロフェッショナルな俳優にも限界があるんだという、あたりまえのことを知った。確か「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のビョークは撮影現場を逃げ出したはずだ。ラース・フォン・トリアーの救いようのないところは、俳優達を鬼気迫った様子で追い込むのではなく、あくまでも相手に配慮しながらというか、手探りの状態で相手と接しているところ。心を鬼にして演出しているのではなく、ありのままの態度で相手を傷つけ、自分を追い込んでしまっているようにみえる。

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2005年02月06日

「ドッグヴィル」 姿を消す贈与

dogville4.jpgラース・フォン・トリアー監督の「ドッグヴィル」を鑑賞。アメリカの地を踏んだことのない男が描いたアメリカ。エロティックで暴力的なお伽噺だった。

ロッキー山脈の山々に囲まれ、閉鎖された鉱山の麓にドッグヴィルという町がある。思慮深い青年トムは質素に暮らす町の人々に対してある不満を持っている。人々の心に受容と寛容の精神が足りないと感じているためだ。
ある夜トムは謎の銃声を聞く。銃声の後、夜の闇の中から女が現れる。女がギャングから追われていることを知ったトムは女をかくまうことに決め、町の人々へある提案をする。

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posted by Ken-U at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(その他の国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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