高木正勝 (ピアノ)
ヤドランカ (ボーカル、サズ)
福井則之 (馬頭琴、ホーミー)
贅沢な時間。都会の真ん中で、野外で、さらに無料で高木正勝の音楽が聴けてしまうのだから、これを贅沢といわずしてなんといえばいいのか。しかも、生の演奏なのである。ステージで揺らぐ三人の姿、後方のスクリーンに照らし出される映像を眺めつつ、このまま時が止まってしまえばいいのに、とかなんとか、ありえもしないことを願う。しかし時の流れとは残酷なもので、このつつましい幸福な時間をあっけなく終わらせてしまう。しかも、演奏の終わりをぐだぐだにして。あれは緊張の糸が切れたせいなのだろうか。周囲のノイズが悪かったのか。あるいは六本木という街にわく毒気がそうさせたのか...すべては謎に包まれたまま、見あげると、夜空。
いっそのこと、すべてを終わらせてくれればよかったのに...散会後、高木正勝さんが落ち込んでいるのではないかと心配になりながら、それでも初期の作品をライヴで観たのは収穫だったなあ、なんて思いながら、同じく観にいったふたりと一緒に夜半まで呑み、とぼとぼと、帰宅。そういえば、月はあの日のあの空に出ていたのだろうか。



最初に聴いたときは、正直、少し物足りなく感じてしまったのだけれど、それは本作にあのコンサートそのままの臨場感を期待していたからで、そもそもライヴの昂奮をそのままパッケージ化することなどできるはずもなく、そう考え直せば、これはこれでよいアルバムだと思える。
高木正勝が森や海辺を歩く姿、彼の言葉、「Tai Rei Tei Rio」(
初めての体験だった。気持ちは昂ってくるのだけれど、ロックやファンク、あるいはクラブ・ミュージックを浴びるときのように、それがからだの外へ向かうのではなく、内側にとどまり続ける。その空間には高木正勝の音楽と映像だけがあり、そこに立ち会う観客はいたって静かなのだけれども、かといって舞台と客席が乖離しているわけではなく、音楽と映像を唯一の媒介としてホール全体はひとつながりであった。あらためて舞台をみると、つかわれている楽器に統一性はない。が、そこから湧きあがってくる音楽には不思議な全体性が感じられる。そしてその波動は、同調する映像をも巻き込み不思議なグルーヴを生み出して、客席をのみ込み、さらに大きな波動となって私の心をふるわすのだ。
高木正勝の映像を眺めていると、人間の肉体が細かな粒子でできていることや、その粒子がこのからだの外の世界を成すものと同じであることを思い起こす。この肉体が粉々に解体され、その肉のかけらが色とりどりの細かな粒子となって、境界を越え、それまで隔てられていた外の世界と交わる。わたしが消えてなくなりこの世界すべてと繋がることによってはじめて得ることのできる恍惚。ぼくはその官能的な映像を眺めながら思わずうっとりとしてしまう。
kaitoの『Contact to the Spirits』を聴いたときに、そのタイトルから「音の精霊」という言葉が脳裏をよぎったのだけれど、このアルバムからも同じようなイメージを感じとることができた。ただし、本作から流れ出る音楽は規則的なビートに裏打ちされているわけではなく、ハウスであるとか、その他諸々のクラブ・ミュージックの文脈からは大きく逸脱するもので、ビートやメロディーから開放された音の響きそのものが持つ力に接近するというか、音楽が本来持つのであろう呪術的な怖さの方に接近していくような感覚を抱かせる。有機的な柔らかさを持ちながらも、いわゆる癒し系のゆるい音とは違うある種の緊張感を持った音のつらなりがそこに感じられる。