2006年02月03日

「女が階段を上がる時」 浮世を離れた先に

成瀬巳喜男監督『女が階段を上がる時』

銀座のバーで雇われマダムをしている圭子。水商売の世界では、彼女はもう若いとはいえない。このままでは、これまで大切にしていたものを守ることすら儘ならない。彼女は岐路に立たされている。独立や結婚など、男たちが持ち込む甘い話に翻弄されながらも、圭子は気丈に立ち振る舞う。

onna_kaidan01.jpg銀座の女たちの姿を通して、男たちの偽善が暴かれていく。冒頭、間近に結婚を控えたホステスの姿が映し出されるが、それが幸福を描いた唯一のシーンだった。その直後、舞台は銀座の路地に移り、女性の自殺体が担架で運び出されるショットが映し出される。

華やかに見える女の世界。その裏側で、彼女たちは過酷な人生を強いられている。独立し、自分の店を持つことができるホステスは一握りだけだ。野心を抱える女は男たちの誘惑に乗って、カラダと引き換えにカネの都合をつける。しかし結局のところ、独立といっても男のカネに縛られてしまうのだ。その果てに、カネの重圧に耐えかね、自ら命を絶つ女もいる。それでも彼女たちは、酒を浴びながら男の機嫌をとり続けなければならない。酒と男は女たちを蝕んでいく。

*****

圭子は階段を上がる。彼女のバーは階段の上にあるのだ。タイトルにも表されている通り、繰り返し映されるこのショットには象徴的な意味が込められているのだろう。
階段の先には、圭子たちが生きる舞台がある。その舞台は浮世から少しだけ離れた、天国のような、地獄のような場所なのだろう。圭子たちにとって、階段とはあの世の入り口のようなものなのかもしれない。
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2006年01月26日

「女の中にいる他人」 境界を越えてしまった男

成瀬巳喜男監督の『女の中にいる他人』を鑑賞。成瀬作品には珍しい犯罪劇。

田代は古い友人である杉本の妻、さゆりと不倫を重ね、その挙句、彼女を誤って殺害してしまう。犯行後、彼は犯した罪を隠しながらも、その重圧に苛まれ続ける。

onna_no_naka02.jpgモノクローム映像のコントラストが強く、描かれる世界の非日常性を浮き立たせている。ただし、これはサスペンスというよりも、心情描写を味わうための作品であるように思われた。
例えば、踏み切り、おもちゃの消防車(踏み切りの音を連想させる)、落雷、打ち上げ花火、停電、蝋燭、トンネル、吊り橋などの音や影(境界領域)の効果が巧みにつかわれている。

それに、冒頭で交わされるガラス越しの会話から始まる田代と杉本の距離。そして田代とその妻、雅子との絆。田代の心情が揺れ動くとともに、親友、妻との関係にも乱れが生じていくが、その過程が丹念に描かれている。

とくに印象に残ったのは、雷雨の晩、寝室で田代と雅子が会話を交わすシーン。雅子が押入れから布団を下ろす時に、ブラウスの背中から下着の線が透けて見える。それまでは隠されていた雅子の性的な部分が、そこで初めて露わになる。そして停電による暗転、蝋燭の明かりに灯され、浮かび上がる雅子の顔。思わず、田代は秘密の一部を漏らす。この一連のやりとりはとても淫靡に感じられた。

*****

物語が進むに従って、田代は刑務所を強く意識する。刑務所とはあの世のメタファーとなっている。逮捕の恐怖に耐えられず、自首することも考えるが、自首は自殺と重ねることができるだろう。

さらに露骨なのは、田代が山間の温泉場で遭遇する飛び降り自殺。自殺につかわれた吊り橋のショットはとても不気味に映る。晩年、成瀬監督は温泉場の飛び降り自殺を繰り返し撮っているけれども、その背景には当時の彼が抱えていた心の闇があるのかもしれない。自殺願望があったとまでは言わないけれど、成瀬監督は死を強く意識していたのだと思う。田代という男には、当時の彼の心情が濃く投射されていたのではないだろうか。
posted by Ken-U at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(成瀬巳喜男) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「妻として女として」 自滅する父権的共同体

tsuma_toshite01.jpg成瀬巳喜男監督の『妻として女として』を鑑賞。

河野は大学講師をしながら、妻の名義でバーの経営を手掛けている。銀座のバーを切り盛りしているのは三保、河野の妾である。しかし戦後開いた銀座の店は老朽化が進み、時代の流れに沿わなくなったため、河野はこれを担保に入れて新たな店を出すことにする。妻の綾子は、新宿に開く新しい店のマダムにルリ子を指名する。新しい店には若い娘の方が合うのだという建前からそうしたのだが、三保はその事実を知り、心を乱す。

銀座の店をめぐって、そして河野の子供たちをも巻き込みながら、妻と妾は互いを責め、諍いを続ける。しかし、このふたりはどちらも被害者である。この悲劇の責任は夫にあるのだから。女を妻と妾に引き裂くのは男である。しかし河野は体面ばかりを気にしながらおろおろとするばかりで、この諍いの責任を引き受けようとはしない。

ワタシはただワタシのために生きる。近代が生み出した利己的な価値観は男だけのものにはならず、女や子供たちにも浸透していく。そして女は男の偽善を暴き、子供は家から逃げ出していく。父権的共同体は、やがて抜け殻に成り果てる。偽装された共同体は自ら滅びていくのだ。

*****

やはり、成瀬作品には高峰秀子だと思った(司葉子も素晴らしいが)。妻を演じる淡島千景もさすがだと感じた。成瀬巳喜男は女性を撮るというけれども、しかし、成瀬が撮っているのはやはり男なのだと思う。女性の視点を借りながら、父権的な近代社会の偽善を撮り続けたのではないだろうか。近代は自然を殺し、女を排除する。成瀬は被害者の立場から、偽装社会に光を当てたのだろう。社会の西欧化が加速するに連れ、成瀬作品に込められる厳しさが増し、悲劇的なラストで結ばれるようになるのも、社会の変容と共に、成瀬自身が抱える怒りや絶望が増したからなのではないだろうか。
posted by Ken-U at 13:43| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画(成瀬巳喜男) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月25日

「驟雨」 紙風船のような

shower02.jpg成瀬巳喜男監督の『驟雨』を鑑賞。

結婚して4年目、亮太郎と文子は倦怠期に陥っている。交わされる言葉は干乾びてしまっていて、ときに刺々しくも感じられる。

日曜日が忌まわしい。ついに亮太郎は居たたまれなくなり、日曜は嫌いだと文子に吐き捨て、ふらりと家を出る。

成瀬作品としては珍しく、喜劇的な小品としてまとめられている。背景に流れるピアノの旋律に乗せて、日常のスケッチが描かれていく。
田舎から東京に出てきた男が会社員となり、結婚して、新興住宅地にささやかな家を持ち、仕事で胃を悪くしながらも満員電車に揺られて自宅と会社を往復する。妻は家に縛られ、夫の自尊心ための犠牲となる。そして反逆する。夫婦間のいざこざを通しながら、戦後日本社会の影の部分がさりげなく描かれている。

夫婦を結ぶ絆とは、脆くてふわふわとした紙風船のようなものなのだろう。ラストはいかにも軽妙な喜劇らしく、ハッピーエンドであるかのように結ばれている。しかし気持ちが晴々とするわけではなく、複雑な心持ちが余韻として残される。そこに演出の妙味が感じられる。
posted by Ken-U at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(成瀬巳喜男) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月01日

成瀬巳喜男特集のまとめ

生誕100周年を記念して放送された、NHKの成瀬巳喜男特集。たしか24本の作品が放送されたと思う。そのうち10本以上の成瀬作品を、ぼくは鑑賞したことになる。これほど集中して、同じ作家の作品を鑑賞したのは初めてだったけど、とてもいい経験になった。夢中になってしまった。出会ったタイミングも良かったと思う。この年齢で観たから感じられたものも多かったはずだ。

今回鑑賞した作品の中で、とくに心を動かされたのは「乱れる」、「乱れ雲」。この2本については、感動するというよりも、胸を抉り取られるような感覚を覚えた。観ていて呻き声が出てしまうような作品は、そうないと思う。
あとは、「晩菊」が良かった。地味な作品だけど、悲喜劇的な演出を通して、人間が持っている心の柔らかさが魅力的に描かれていたように思う。
林芙美子の原作ものでは「放浪記」。この作品には泣かされた。言葉の力だけを支えに生き延びようとする女。その姿に、成瀬巳喜男の想いが重ねられているような気がした。
もちろん彼の代表作、「浮雲」も忘れてはならない。集大成的な位置づけの作品だから、成瀬を知るために1本だけ作品を観たいという人には、この作品を薦めることになるだろう。

敗戦後、急速に変容するこの国の影の部分。引き裂かれ、消え去っていく、儚くて美しいものたちを執拗に描き続けた成瀬巳喜男監督。ぼくは彼の思想というよりも、彼が私的に背負っていたものや、その生い立ちに興味が向いてしまう。

*****

この特集を通じて、半世紀前の日本の姿を垣間見ることができたような気がする。まだ路地の舗装が行き届いておらず、木造の家屋が建ち並んでいるような世界。僅かに残されていた社会の柔らかさが、そこに表されているような感じがした。
成瀬作品が娯楽映画として成立できたのも、日本人の心の中に柔らかさのようなものが残されていたからなんだろう。多くの人々が、表層の先にある奥深いものを汲みとりながら、心を動かしていたんだと思う。

「戦後」が終わったとされ、日本経済が発展を遂げる中で、社会の硬質化が進んでいく。そして映画産業にも翳りがみえ始める。こういった社会の変容にあわせるように、成瀬作品にも鋭さが増していった。その変化を眺め、今を眺めながら、未来について想いをめぐらせた。これからも機会をみつけて、成瀬作品を鑑賞したいと思う。

以下に、成瀬作品に関するエントリーをリンクしておく。

2005/09/30 「女の座」 庭の石を描く
2005/09/27 「流れる」 狭間に立つ柳橋
2005/09/22 「乱れ雲」 そして引き裂かれる
2005/09/21 「乱れる」 そして掻き乱される
2005/09/20 「浮雲」 戦後日本が滅ぼしたもの
2005/09/15 「おかあさん」 静かな家庭崩壊劇
2005/09/12 「成瀬巳喜男 記憶の現場」(ドキュメンタリー)
2005/09/10 「放浪記」 それでも書き続ける女
2005/09/08 「晩菊」 金が引き裂くもの
2005/09/07 「妻」 怖い女に翻弄される男
2005/09/06 「妻よ薔薇のやうに」 金と情をめぐる家族の絆
2005/09/06 「めし」 女のしあわせとは

後日追加:
2006/01/26 「驟雨」 紙風船のような
2006/01/27 「妻として女として」 自滅する父権的共同体
2006/01/27 「女の中にいる他人」 境界を越えてしまった男
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2005年09月30日

「女の座」 庭の石を描く

成瀬巳喜男監督の「女の座」を鑑賞。'62年の正月映画。豪華俳優陣が競演する、荒物屋を舞台にした群像劇。

キャスティングにつられて、また観てしまった。高峰秀子に司葉子、それに杉村春子という組み合わせに惹かれてしまった。父親役には笠智衆、それに成瀬作品の常連たちが脇を固めている。

onnano_za01.jpg2年後の、「乱れる」に繋がるテーマを持った作品。この作品を研ぎ澄まして、再構築すると「乱れる」になるんじゃないだろうか。それと、小津安二郎監督の「東京物語」との繋がりも感じられた。

終わらない戦争、売り上げのあがらない荒物屋、店と家庭を切り盛りする後家、自由恋愛、堕胎、失業、そして学歴による収入や社会的地位の格差といったテーマが扱われている。
他の作品と少し違って感じた点は、犠牲になる「息子」の存在が重く描かれているところだ。

石川家の後妻であるあきが、先夫との間に生み、そのまま先夫のもとに残していた息子、六角谷甲。彼は偶然、石川家の人々の前に現れる。この男は、見栄えのする容姿と豊富な知識によって、不遇な人生を生き延びてきた。彼の言動にはある歪みが感じられるが、その歪みはカネと女性へと向けられている。彼の抱えた心の歪みを辿っていくと、母親に捨てられた息子が抱える心の傷へと行き着くんだろう。母親に捨てられた男は、父親にも死なれ、カネに苦労しながら生きてきたのだ。彼は復讐している。女を傷つけることが彼の復讐なんだろう。しかしその一方で、彼は強く母の面影を求めている。母性に飢えている。

もうひとりの息子。石川家の長男の嫁、芳子のひとり息子である健。彼の父親は既に亡くなっている。彼は石川家の跡継であり、家族の中でただひとり芳子と血の繋がりのある存在でもある。彼は母親の期待を一身に背負い、高校受験の勉強に励んでいる。
彼にとって、母親の期待は重圧になっていて、伸びない成績に悩まされている。そしてある日、彼は知る。貧しい家庭で育った同級生が、成績優秀であるにもかかわらず、進学を諦め、自分の親戚が経営するラーメン屋でアルバイトをしているのだ。その事実に直面し、健はさらに苦悩する。

健をめぐる物語は、この作品の中でも突出して暗く、重い。作品のバランスが少し崩れてしまうくらいの描かれ方で、少し違和感を感じてしまう。ただ、それだけに心に突き刺さるものがあるのも事実で、とても複雑な想いを抱かされる。
健が線路沿いを歩いている時に、背後から列車が通り過ぎていく。そのショットがとても印象的だった。

*****

豪華キャストの群像劇としては、先日鑑賞した「流れる」よりも良くできているような気がした。物語がより緻密に編まれている。脚本を担当している松山善三の仕事によるものなんだろうか。彼が脚本を担当した「乱れる」同様、この作品もラストに向かって物語が急展開していく。それにしても、この「女の座」はちょっと急過ぎるのかもしれない。ただしそれを差し引いたとしても、この作品は予想以上のものだった。
posted by Ken-U at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(成瀬巳喜男) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月27日

「流れる」 狭間に立つ柳橋

成瀬巳喜男監督の「流れる」を鑑賞。豪華女優陣が競演する娯楽劇。

また成瀬作品を観てしまった。先日の「乱れ雲」で、特集も一段落といったところだけど、深夜枠で放送は続いている。それでついつい観てしまうのだ。それにしても、彼の作品は飽きることがない。

この作品のみどころは、やはり豪華な女優陣ということになるだろう。山田五十鈴、田中絹代、高峰秀子、杉村春子、岡田茉莉子らが各々の技芸を競っている。この作品で18年ぶりに栗島すみ子が復帰したそうだけど、残念ながらぼくはこの女優のことを知らなかった。それもそうだ。この作品自体、ぼくが生まれる10年も前に公開されたものなんだから。

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nagareru01.jpg舞台は柳橋にある芸者置屋の「つたの屋」。戦後から拍車のかかった西洋化の波は、この置屋の経営をも行き詰らせている。女将の娘、勝代は芸妓の道を選ばなかった。その道に将来がないことが判っているからだ。

職業安定所の案内で、梨花という女が面会に来る。彼女は未亡人で、子供も亡くしている。田舎から出てきて自活しようとしているが、年齢のために就職先が見つからない。そんな彼女を、女将のつた奴は雇うことにする。
その後、芸妓たちの姿が梨花と対比されながら描かれる。彼女は異質な存在で、芸妓たちが持っていないものを持っているからだ。「梨花」という名前が、置屋では「お春」になる。彼女は「お春」としてつたの屋に馴染むが、彼女は「梨花」でもあるのだ。

存続の危機に直面している芸者置屋とその女将、そして芸妓たち。それぞれが問題を抱え、葛藤しながら生き延びようと努めている。勝代はそこから抜け出そうともがいているが、玄人女と素人との狭間で居場所を失い、行き詰まってしまっている。

そして梨花。彼女にもある決断が迫られ、「お春」と「梨花」の狭間で葛藤する。そして彼女は、芸妓たちの稽古をじっと眺める。揺れている。そこに、自室にいる勝代のショットが挿入される。そして柳橋の象徴的なショット。

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中盤、少し緩むのが残念だけど、終盤にかけて濃密になる。特に、ラストに至る物語とショットの流れが素晴らしい。そこでは「狭間」に立たされるものが、重層的に描かれている。

「浮雲」の成功により、多くの予算が充てられたんだろう。つくられたセットも豪華だった。2階の部屋のシーンでは、向かいの家の部屋まで作りこまれていて、そこで住人が掃除をしていたりもする。オープンセットもロケとの判別ができない規模で作られている。ただし、キャスティングも含め、成瀬作品としては規模が大きすぎるような気がしなくもない。
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2005年09月22日

「乱れ雲」 そして引き裂かれる

成瀬巳喜男監督の遺作、「乱れ雲」を鑑賞。司葉子が主演。あのドキュメンタリー以来(過去記事)、この美しい女優に興味が湧いてしまっている。そして「乱れる」同様、加山雄三が共演している。1967年の作品。

midaregumo01.jpg戦争、アメリカ、TV、カネ。そして堕胎が描かれている。近代が母性を殺している。そして引き裂いてしまう。

由美子の夫、江田宏はアメリカ赴任の直前に事故で死ぬ。アメリカで成功を果たす前に、成瀬監督はこの男を殺してしまうのだ。そして由美子と三島をこの男の死の影に縛りつけてしまう。

遺作というのに、この作品から衰えのようなものは感じられない。むしろ凄みが増しているような印象を受ける。これもかなり残酷な作品。惨い。昨晩の「乱れる」同様、観ていて言葉を失い、呻いてしまうような作品だった。語るよりも観るべき作品だと思う。

*****

十和田湖でふたりが和解をした後、三島は熱を出し、寝込んでしまう。熱にうなされながら、三島は由美子に手を握ってくれと頼む。いったん手を添え、そして握り直す時のショットがたまらなくいい。この作品に限ったことではないけど、ディテールの描き方が素晴らしくいい。

そして終盤。ふたりはタクシーに乗る。山道を奥深く進んでゆく。そして踏切にさしかかる。ふたりは踏切を越える。さらに果てへと進むときに、ふたりは見てしまう。そして引き裂かれる。
「乱れる」と同じように、「果て」への移動と、それでも結ばれないふたりの運命が描かれている。そしてラスト。霧にかすんだ十和田湖が死の世界の入り口のように見える。そして湖面に伸びる桟橋。由美子の後ろ姿。

*****

これだけの作品の中に、喜劇的な要素が配置されている。しかし50年代の成瀬作品とは違って、笑うことができない。むしろ、恐ろしいと感じてしまう。成瀬監督はいつものように冗談を言いながら、淡々と静かにこの作品を撮り進めていたそうだ。

繰り返しでてくる「窓」がとても印象的だったけど、その意味がうまく掴めなかった。それが少し残念。それは次回までの宿題にしよう。
posted by Ken-U at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(成瀬巳喜男) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月21日

「乱れる」 そして掻き乱される

成瀬巳喜男監督の「乱れる」を鑑賞。若手人気俳優、加山雄三が高峰秀子と共演。1964年の作品。

midareru01.jpg恐ろしい作品だった。あのラスト。観終わった後、少し間をおいてからぐさりと突き刺さるような。しばらく放心してしまった。

1964年といえば、東京オリンピックの年だ。この国は高度経済成長の絶頂にあった。日本人が夢を見ていた時代。ぼくの両親も東京にいた。ぼくはまだあの世でゆらゆらしてたんだけど。

そんな時代にこの作品を突きつけたわけだ。そこに成瀬監督の強い意志というか、どちらかというと深い絶望を感じる。東京が物語の舞台に選ばれなかったところにも注目したい。

この作品でも、居場所のない男女が排除されていく様子が描かれている。作品の後半、ふたりが延々と移動していく。その過程を執拗に撮っている。そこに成瀬監督の心情の深さが表現されているようだった。

印象に残るのは作品の前半、礼子と幸司が口げんかをする時のショット。幸司は捨て台詞を吐いた後、2階にある自分の部屋へと移動する。階段の向こうが暗闇になっていて、その暗闇の中へ幸司が消えていくように撮られている。後になって振り返ると、そこには幸司が抱えている心の闇や、彼を待ち構えている運命が暗示されているようだった。

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その他にも、冒頭から卵をつかって物語の背景を描くところなど、脚本の良さに感心させられた。それに、終戦から20年近くたっても戦争が描きこまれているところも。

珍しく、自分なりにネタバレに配慮して書いてみた。ぶらぶらしている男としては、いろいろと考えさせられることも多かった。ぶらぶらしてる男は、ぶらぶらしながらいろんなこと考えてるってことだ。

昨日、都知事がオリンピック招致を表明した。スーパーマーケットといえば、中内功氏が19日に亡くなった。そういうタイミングで放送された作品。これもなにかの因縁なのか。
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2005年09月20日

「浮雲」 戦後日本が滅ぼしたもの

成瀬巳喜男監督の代表作、「浮雲」を鑑賞。この作品の高峰秀子も素晴らしかった。

ukigumo01.jpg戦時中、赴任先のインドシナで不倫関係に陥った幸田ゆき子と富岡兼吾。終戦後、ふたりはそれぞれ東京に戻る。そして居場所を失った男と女が、別れてはよりを戻しながら破滅していく姿が描かれている。

この作品を眺めているうちに、レオス・カラックスの「ポーラX」と、最近読んだ星野智幸の「在日ヲロシヤ人の悲劇」を思い出した。何故それらを連想してしまったのかを考えながら鑑賞したので、そのあたりから書き留めることにする。

*****

「ポーラX」との類似点は少ないと思うけど、主人公が堕ちていく過程で、白から黒へと世界が塗りかえられていくところは共通していると思った。

南国のインドシナは、太陽の光が眩しい白い世界として描かれている。城のような建物で暮らすゆき子は純白のドレスを身にまとっている。
東京でのゆき子は、最初こそ白いブラウスを着ているが、その後はグレーのコートや和服で身を包むようになる。
そして最後に屋久島へと渡る時、ふたりは黒いコートに包まれ、雨に打たれながら船に乗っている。日は照ることなく、強い雨が降り続いている。グレーを雨に濡らし、その黒さをより強調しているようにも感じられる。島に着いても天候は変わらず、ゆき子は暗い闇の世界の中、深いグレーの浴衣で身を包みながら床にふしている。

同じような南の土地であるにもかかわらず、インドシナと屋久島は対照的に描き分けられているのがとても印象的だった。

もうひとつは、分身というか、亡霊的な存在に翻弄されながら、主人公が身を堕とすところ。「ポーラX」はこの「浮雲」を参照しながらつくられたんだろう。描かれているものはずいぶん違うと思うけど。

*****

そして「在日ヲロシヤ人の悲劇」を連想したのは、この「浮雲」が、日本の近代化の中で滅んでいくものを描いた作品だからだろう。そして女が殺される物語だというところも共通しているように思う。

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2005年09月15日

「おかあさん」 静かな家庭崩壊劇

成瀬巳喜男監督の「おかあさん」を鑑賞。ある貧しい家庭の物語。

okasan02.jpg福原家はクリーニング店を営んでいたが、戦災で店を失ったしまった。父親の良作は工場の門衛をしながら店の再建に取り組む。福原家の5人とひとりの家族、そして再開した店を取り巻く人々の姿が、哀感を込めて描かれている。

働いて家族を支えるべき男達の不在は、この作品の中でも強調されている。
長男の進は奉公先で病気になり、遂には命を落としてしまう。良作も店の再開を目前にしながら病に倒れ、そのまま亡くなってしまう。
正子の妹、則子は未亡人で、小さな息子と共に満州から引き上げてきた。自活するために髪結いの資格をとろうと努めている。息子の哲男は正子が預かっている。近所の女たちも夫や息子を戦争で失っている。

男のいない環境の中で、自分を犠牲にしながら働く女たち。そして子供たちも。「商売」「経済」というセリフが多用されているのが印象的だった。この作品でも、情や絆がカネや経済の力に脅かされている。そしてカネの世界を受け入れながらも、何かを懸命に守ろうとする者の姿を成瀬監督は繰り返し描いている。

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死後も残る父親の面影。その描き方も滲みる。大切なものを失い続けながらも献身的に生きる母親。彼女の元から去っていく家族。とても哀しい物語なんだけど、喜劇的なエピソードが挿入されているので娯楽作品として鑑賞することができる。というか、娯楽性の強い作品なのかも。長女の年子の存在がとても利いている。彼女の視線に救われる。

長屋街の路地を走る子供、街を練り歩くちんどん屋がこの作品の中にも登場する。成瀬監督の生い立ちと深く繋がる映像なんだろう。
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2005年09月12日

創造と職人の技芸との繋がり

気をとり直して、録画していた「成瀬巳喜男 記憶の現場」を鑑賞。成瀬作品の関係者たちの証言を通して、成瀬巳喜男とその作品の魅力に迫るドキュメンタリー。

naruse02.jpg1905年、成瀬巳喜男は東京の四谷坂町に生まれた。父親は没落した武家の末裔で、刺繍職人だったらしい。そういえば、坂町から南に下ると東京三大貧民窟のひとつだった鮫河橋がある。その先は赤坂御用地。坂町の西隣りは荒木町。なにやら悪党的な匂いのする地域だ(過去記事)。

成瀬の家庭は貧しく、15歳の時には自活を余儀なくされ、1920年、松竹キネマ蒲田撮影所に就職をする。
24歳で監督デビューを果たした成瀬は、その後トーキー映画を撮るためにPCL映画製作所へ移籍する。そこから彼の才能は開花した。

*****

日常の中の些細な出来事が淡々と描かれていながら、そのディテールのひとつひとつに深い奥行きが感じられる。今回の特集を追いながら感じる成瀬作品の魅力のひとつに、そういった「深み」がある。優れた映画は皆そういった要素を持っているものだとは思うけど、成瀬作品の場合はなんというか、派手さのない職人的な奥行きというか、緻密で柔らかな技のようなものが強く感じられる。このドキュメンタリーを通してよく解ったのは、その「深み」は脚本だけではなく、職人的技術者たちにも支えられていたということだ。

その象徴的な例として、成瀬作品で多用されたセットによる撮影がある。野外のオープン・セットを含め、成瀬監督はロケではなく、セットでの撮影を好んだようだ。

撮影につかわれたセットを支えた技術者として、美術監督の中古智(ちゅうこ・さとる)と照明技師の石井長四郎が紹介された。特に中古は「窓の外の中古」という別称を持っていて、セットで作られた窓の外にある風景まで、精密なミニチュアによって再現できる技術者だった。
屋内のセットでは、壁が必ず四面とも作りこまれた。オープンセットでも、遠景に見えているビルをセット内に縮尺して再現した。それらの映像の一部が例として紹介されていた。
セット作りのの技術には驚かされる。古いモノクローム・フィルムということもあるんだろうけど、実際の作品を観ても、どこからどこまでがセットなのかを判別するのは不可能だ。

*****

俳優に対するインタビューでは司葉子の話が突出して面白かった。高峰秀子は別格として、司葉子レベルの俳優にはあまり演技力が要求されなかったと告白していた。謙遜はあると思うけど、シーンの流れを壊さないように動けば良かったと、笑いながら話していた。
その一方で、成瀬監督にとっては編集が全てだったという意見も述べていて、なるほどそうかと納得させられた。その他にも彼女の話には感心させられることが多かった。

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異様に静かなセットの中での撮影を好み、編集に重きを置く。撮影スケジュールと予算は必ず守る。成瀬巳喜男監督にまつわる、いかにも映画職人といったエピソードにはとても惹かれるものがあった。

成瀬作品に限らず、映画製作には俳優も含めた多くの技術者が関わっている。以前NONFIXでやってた映写技師のことも思い出した(link)。古い日本映画を観ていると、そのレベルの高さを再認識させられる。この国の撮影所は、職人達の技芸に支えられながら、世界に誇れる水準に達していたんだな。

作家の脳内で湧き出たイメージが、職人達の技芸に支えられながら目に見える映像となり、スクリーンに映し出され、観る者が感動する。ぼくはその繋がりにとても魅力を感じる。
posted by Ken-U at 23:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画(成瀬巳喜男) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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