2009年03月22日

「悲夢」 白と黒の交差

キム・ギドク監督 『悲夢』 (ヒューマントラストシネマ渋谷)

英題: 『SAD DREAM』

男は夢の中で目撃する。女は夢の中を生きる。白と黒は反転する。

sad_dream.jpg男と女、愛と憎、夢と現実...この世の中で引き裂かれているふたつのものが白と黒の対比の中で描かれている。男は失われた愛を、女は憎しみを、それぞれひきずりながら生きており、男は夢をみて、女はその夢を現実として生きようとする。その夢と現実の交差が荒唐無稽な悲劇をうみだすのだけれども、キム・ギドクはその様をいかにも彼らしく悲喜劇的にみせている。

この作品の特徴はなんといっても主演のオダギリジョーだと思う。が、これがいまひとつだった。それにしても、なぜギドクは彼にああも台詞を喋らせたのだろう。彼だけが日本語を話すという違和感もそうだけれど、それ以上にその台詞であらゆる事柄が説明されてしまうのでそのたびに興が醒め、作品世界に浸りきることができなかった。映像の上に言葉の膜を張りかたちを整えるのはキム・ギドクらしからぬ演出だと思う。言語の問題があるのであれば、たとえば『ブレス』(過去記事)のチャン・チェンのように終始無言でもよかったのではないだろうか。

とはいえ、キム・ギドクの新作を劇場で観ることができてなにより。過渡的状況にあるキム・ギドクの今後は予想するのが難しいけれど、それでもやはり彼のこれからに期待してしまう。母国との関係が薄まり、彼の創作の足場は少しゆらいでいるようにもみえる。が、この揺らぎの先にいったいどのような作品の広がりがあるのだろう。期待と不安が入り混じる。
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2008年06月08日

「ブレス」 石礫から雪礫へ

キム・ギドク監督 『ブレス』 (シネマート六本木)

英題:『Breath』

男と会うために、女は刑務所へと向かう。

breath00.jpgあの時、女はなぜ刑務所に向かうことを思いついたのだろう。行く当てもないまま家を飛び出し、途方に暮れながら、それでもどこかへ向かわなければならなくなったとき、女は咄嗟にあの男のことを思い出した。おそらく、彼女は男の自殺未遂報道を目の当たりにしたとき、おのれの喉を掻き切ることで自死を図る死刑囚の姿と、渇いた世界の中で孤立し窒息しそうになっている自分の境遇を重ね、これから互いがたどる末路にどこかしら相通じるものを感じとったのかもしれない。

しかしながら、このふたりが出会い、交わって、すれ違うまでの過程の中で浮かび上がるのは、ふたりの世界がとても似ているようで実は異質なものであるという残酷な現実であった。このふたつの世界を切り分ける最も大きな要素は、「赦し」である。女の世界には赦しがあり、男の世界にはそれがなかった。この差異が、ふたりのたどる結末を大きく変えてしまうのである。作中、神の領域に身を置くキム・ギドクは、このふたりの恋愛の行方を見守り、そこで女の気持ちをできうる限り尊重しながらも、しかし彼女が男の世界に絡めとられるのをぎりぎりのところで防ごうとする。

このふたつの世界の差異が際立つのは、やはりあのラストの描写だと思う。ここで印象深く感じられるのは、雪遊びに興じる女とその家族の姿である。石礫から雪礫へ。かつてキム・ギドク作品といえば、飛礫を投げる行為が怒りの象徴としてつかわれていたのだけれど、本作では、石礫に代わって雪礫が、赦し、あるいは和解の象徴として扱われている。女とその家族は雪礫を投げあう。白い雪の玉は、それぞれの顔に、身体にぶつかりながら柔らかく砕け散る。戯れの中で、女は笑みを浮かべる。
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2007年10月14日

「絶対の愛」 すり抜ける恋愛と自滅するわたし

キム・ギドク監督 / 『絶対の愛』 (下高井戸シネマ)

英題: 『TIME』

その女は、愛する男を繋ぎとめるために、自分の体にメスを入れる。

time03.jpg自由恋愛とはやっかいなもので、その関係を固定してしまうと、それまでたぎっていた熱が冷め、その熱とともに心の高まりがどこかへ消え去っていきがちである。相手は確かに自分の傍らにいるのだけれど、そこにかつての恋愛感情が留まり続けているのかどうか、定かではない。相手の体はそこにあるとしても、その心はわたしという存在をすり抜けて別のどこかへ向かっているのではないか、という不安に苛まれてしまう。だからわたしは、全身全霊をもって、わたしの恋愛の相手を繋ぎとめなければならない。がしかし、わたしが繋ぎとめようとすればするほど、相手の心はわたしから離れ、どこか遠いところへ消え去っていくような気がしてならないのだ。そうしてわたしは思い悩んだ挙句、このわたしの輪郭をわたし自身の意志によって再構築し、より強固なものにしたうえであなたと出会い直したいと考えた。そして再び愛しあうことによって、揺るぎのない絶対的な絆を手に入れたいと願ったのだ。その結果、あなたは再びわたしのものとなった。しかし時の流れとともに、絶対であるはずの恋愛に映し出されるわたしの輪郭は再び危機的状況に陥る。わたしという存在はなぜにここまで脆いのだろう。わたしが懸命に繋ぎとめようとしたものは、結局のところ、わたしのもとをすり抜け消え去るしかないのだろうか。

この『絶対の愛』は、韓国では日本以上に普及しているといわれる美容整形という題材を扱うことによって、脆弱な個の輪郭というテーマをとても分かりやすいかたちで映像化していると思う。ただ、少し違和感を覚えてしまったのは、キム・ギドク作品にしては珍しくセリフが多用されているという演出方法である。その理由を自分なりに考えてみたところ、それは本作が現代における自由恋愛を描こうとしているからだと思い当たった。近現代の産物である自由恋愛の背景には「わたし」という個人の存在とそのエゴがよこたわっているため、本作の登場人物たちは言葉によって自己を主張し、それぞれが抱える「わたし」の輪郭をかたちづくる必要があったのだろう。しかし、そう理解はできたのだけれど、このセリフの多さのためか、従来のキム・ギドクらしい映像の密度が本作からは少し失われているような気もした。ただそれは、前作『弓』(過去記事)を観たときにも近い印象を持ったことを考えると、セリフの扱いだけが原因というわけではないのかもしれない。『弓』とこの『絶対の愛』という2作品は、それ以前のギドク作品とは異なる文脈というかアプローチによって製作されているのかもしれない。今後、キム・ギドクはどこへ向かっていくのだろう。
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2007年06月02日

「鰐」 渇いた陸の世界にその余地は残されていないのだろうか

キム・ギドク監督 『鰐』/ 原題 『Ag-o (Crocodile)』 (ユーロスペース)

crocodile04.jpg橋の下に、「鰐」と呼ばれる男がいた。ある晩、彼は川底からひとりの女を拾い上げる。その後、息を吹き返したその女を犯す。鰐は、繰り返し女を凌辱する。

陸の世界は、男根と拳銃による暴力で溢れている。鰐もまた、この世界の辺境に身を置きながら、彼なりの野蛮さを発揮することによって、この渇いた世界を生き抜こうともがいている。しかし、彼は鰐であるがゆえに満足な教育を受けておらず、つまり、心の中の野蛮をうまく隠蔽することができないため、その凶暴さ、残忍さをありのまま露わにするしかない。だから彼は、女を殴り、無理やり押さえつけて、そそり立つペニスを女の体に突き立てるのだ。鰐は、女に飢えていたのだ。水の世界、死の世界からもたらされたその女は、その濡れた肉の塊は、彼にとって、とくに美しく感じられたのだろう。

*****

水の女との交わりの中で、鰐の心の中になにかが芽生え、彼の輪郭を形づくる鎧のような鱗が溶かされていく。そしてこの鰐の変化とともに、ふたりの心は触れあい始める。しかし、この渇いた世界の中に、ふたりが結びつくための余地は残されていないのだった。

キム・ギドク監督の長編デビュー作品であるこの『鰐』は、観客が密かに期待する陳腐な恋物語的結末をぎりぎりのところで裏切り、その後、悲劇的なハッピーエンドで幕を閉じる。そのラストでみせる鰐の最後のひと足掻きが強く印象に残った。
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2007年05月03日

「魚と寝る女」 ギドク曼荼羅への入口

キム・ギドク監督 『魚と寝る女』 / 原題 『SEOM (THE ISLE)』 (ユーロスペース)

特集『スーパー・ギドク・マンダラ』 レイト・ショウ上映。

seom05.jpgこの『魚と寝る女』は、ぼくがキム・ギドクという映画監督の存在を知るきっかけになった作品である。今から4年ほど前、CSの仮登録期間中、あれこれとザッピングしていて偶然出くわし、観るともなく観るうちにその映像世界に引き込まれ、そのままエンディングまで釘づけになったことを今でも憶えている。それまでのぼくは、キム・ギドク作品に限らず、韓国映画全般を意識することがなかったのだけれど、この偶然の出会いをきっかけに、キム・ギドクの新作は逃さず劇場で観るようになり、他の韓国映画に対する関心も高まって、さらには韓国という国そのものに対する見方も変わり、以前より身近に感じられるようになった。

そして約4年ぶりにこの作品を鑑賞してみて、描かれる世界がこれほどまでに荒唐無稽なものだったかと少し驚かされはしたけれど、しかしながらそこにあるのはまぎれもないキム・ギドクの世界そのものであるという印象を受けた。粗削りで、ここ最近の作品ほどは洗練されていないのだが、山に囲まれた湖面に浮かぶ小屋、娑婆で犯した罪から逃れようとする男、水の世界に寄り添い生きる女、男女を襲う激烈な痛み、その痛みによって結ばれるふたり...といったキム・ギドク的というか、本作の後に続く作品、とくに『春夏秋冬そして春』(過去記事)や『弓』(過去記事)へと繋がるモチーフ、そのほかにも、行水(あるいは入浴)する女や揺れるぶらんこのショット、そしてなにより主演女優に向けられたエロティックな視線など、それらの作品と強く結びつくイメージが数多く散りばめられているような気がした。

*****

ところで、今回の特集上映のタイトルに「マンダラ」という言葉がつけられたのは何故だろう。それを不思議に思いながらこの作品を眺めていたのだけれど、ここまでの文章をタイプしていたらその疑問が少し解けたような気がした。それはつまり、彼の作品群をあらためて眺め直す機会を提供することで、各作品の部分同士が繋がりあったひとつの大きな映像イメージ‐ギドク曼荼羅と呼べるほどの巨大で複雑な成り立ちをした映像宇宙‐を観客の脳内に浮かび上がらせる、という企画側の意図があったのではないだろうか。そして、そのギドク曼荼羅という映像イメージは、たぶん、本作のラストであからさまに表現されていた母性回帰願望と深く結びついているような気がする。

引き裂かれるはずであったもの同士が、荒唐無稽とも思える論理的、映像的飛躍によって再び結びつけられる...『スーパー・ギドク・マンダラ』と名づけられたこの特集上映は、キム・ギドク作品が持つ魅力を再発見しながら、さらにその魅力を‐それこそシナジー効果と呼べるような連鎖の働きによって‐相乗的に増幅させて楽しむためのよい機会になったのかもしれない。それなのにぼくは、3月にこの『魚と寝る女』を鑑賞しただけで、さらに最新作である『絶対の愛』を見逃してしまったのだった...
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2006年10月07日

「弓」 あるひとりの女への欲望

キム・ギドク監督 『弓』。原題『hwal』 (ル・シネマ)

老人は半島から離れ、海に浮かぶ漁船の上であるひとりの娘と暮らしている。その娘は、10年前にあの半島から連れ去られ、それ以来、外の世界を知らないまま洋上で育った。娘はもうすぐ17歳になる。その誕生日に、彼女は老人と結婚することになっているのだが、ある日、漁船にひとりの青年が現れ、青年と娘は互いに惹かれ合うようになる。

hwal03.jpgこの『弓』は、これまでのキム・ギドク作品とは少し異なる文脈で撮られているのかもしれない。というのも、本作で最も印象深く感じられるのは、やはり娘役を演じているハン・ヨルムの妖しい魅力ではないかと思うのだ。これまでのキム・ギドク作品では、どちらかというと極私的な、主人公と社会(韓国・朝鮮半島、あるいは家庭)との関係、距離を描くものが多かったように思うけれど、この作品で執拗に描かれているのはハン・ヨルムの艶めかしい身体そのものであり、そしてその身体に向けられる欲望であるように思える。キム・ギドク監督は、その欲望を昇華し、寓話化されたある種の映像詩を紡ごうとしている。それがこの作品の主たるテーマなのではないだろうか。

この作品のタイトルにもなっている「弓」の扱われ方に、その文脈の違いが表われているようにも思える。弓は、これまでの作品に登場した「飛礫」や「3番アイアン」などと同じように、外の世界に対して怒りを表明するための武器として描かれているのだが、それだけではなく、美しい旋律を奏でるための楽器としての役割も担っている。さらに、その弓で矢を射る場合も、矢は外界の住人たちを狙うばかりではなく、ハン・ヨルムの身体にも向けられている。この場合、弓が表す感情はもちろん怒りではなく、ハン・ヨルムの肉体に対する欲情である。「弓占い」というかたちで繰り返し描かれるこの情動は、ラスト・シーンで頂点に達し、ハン・ヨルム演じる娘の魂を悦楽の絶頂に至らしめる。

*****

これまでとは違う趣向を持つとはいえ、娑婆から離れた水の世界に浮かぶ家という設定はこれまで何度も描かれたものだし、そこで渦巻く欲望や葛藤、そして暴力など、人間の業(ごう)とでもいえるような心の動きもキム・ギドク作品では馴染みのものだ。という意味では、本作で描かれているのはまぎれもなくキム・ギドクの世界だといえる。ただ、ひとりの女優の身体をここまで執拗にカメラで追うとは予想していなかったので、正直、観ていて戸惑うところも多かった。

そしてあのラストは、ネットで目にしたキム・ギドク引退の噂を思い出させたけれど、次作も既に撮り終えているようだし、とりあえず彼が引退してしまうことはなさそうだ。今後、キム・ギドクがどこへ向かうのか、興味は尽きない。
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2006年03月14日

「うつせみ」 この世界との新たな関係

晴れのち曇り。真冬のような寒さの中、恵比寿でキム・ギドク監督の『うつせみ』を鑑賞。英題は『3-Iron』。観客は20人ほど。

3-iron06.jpg硬化する世界は母性を傷つけ、その自由を奪い、この世の片隅へと追いやってしまう。女性の彫像に向けてゴルフ・ボールが撃たれる冒頭のショットには、この傷つけられる母性のイメージが投射されている。そのゴルフ・ボールを撃つのはソナの夫であるが、彼の振る舞いはやはり父権的、男根主義的である。彼はソナに暴力をふるい、豪奢な家の奥に閉じ込める。右目のまわりを赤く腫れあがらせたソナは、やはり傷つけられた母性の姿をあらわしているのだろう。

そして、傷つけられたソナは、テソクという青年と出会う。留守宅だと勘違いしたテソクが、ソナの家に忍び込んでしまったのだ。テソクはソナの存在に気づき、彼女が負っている傷を癒そうとする。

*****

ソナとの出会いがきっかけになって、テソクの振る舞いは次第に変化していく。当初は彼もゴルフクラブ(3-Iron)を手にしてボールを撃っていたのだが、その標的となったのは、ソナの夫であり、巨大な集合住宅であり、国家権力であった。彼の標的は一貫している。母性を守り、その傷を癒すために、テソクはこの硬質な世界と対立していたのだ。しかし、その態度はやがて改められる。彼は対立することをやめ、この世界の壁をすり抜ける術を身につけようとするのだ。この対立とも融和とも違う、新たな関係を獲得することによって、ソナとテソクの運命は大きく変わっていく。

ラストで描かれる奇妙な三角関係には、キム・ギドク監督を取り巻く現在の状況が投射されているのかもしれない。彼が作風を変化させた背景の、その断片が、この作品の中に散りばめられているような気がした。創作に対する彼の情熱に変わりはないのだろう。おそらく、社会に対する彼の心情にも変わりがないのだと思う。ただ、それを他者に投げかけるときの態度が変わったのだ。そして、彼と社会の関係にも何かしらの変化があったのではないだろうか。

*****

前作の『サマリア』、そしてこの『うつせみ』を通して、漠然と”母性”という言葉を連想したのだけど、ソナの姿を眺めながら、その母性が朝鮮半島と深く結びついていることを感じとることができた。傷ついたソナの顔が『受取人不明』(過去記事)のウノクの顔と重なってみえたのだ。考えてみると、それは当然のことのようにも思える。

あの半島は南北に分断され、その南側に位置する社会は西欧化を推し進める。その変化は大きな富を生むが、おそらくその一方で、かつて存在していた何かを消し去ってしまったのだ。この社会から消えうせようとしている大切な何かを、キム・ギドク監督はこれからも描き続けるのだろう。今後も彼の作品には注目していきたい。
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2006年03月11日

「受取人不明」 引き裂かれた半島の痛みとアメリカ

キム・ギドク監督『受取人不明』

韓国の山村。そこには米軍基地がある。米兵を父に持つチャングクは犬商人の手伝いをしている。彼の父親はすでにその村を去っており、今はその犬商人が母親の情夫となっているのだ。彼らは米軍や村の住民から犬を買い取り、捌き、肉にすることで生計を立てている。その住処である廃バスは赤く染められている。その赤は犬の血のようであり、彼ら自身の血のようでもあり、あるいは彼らの怒りや憎しみが投射されることによって赤く染め上げられているようにもみえる。チャングクたちはそこで犬のように暮らしている。

address_unknown00.jpg南北に引き裂かれた半島の痛みが描かれている。その半島の南側で痛みを引き受けているのがチャングクであり、その母親であり、彼らの周囲で暮らす人々であるのだ。その村に住む娘、ウノクも痛みを引き受ける者のひとりである。

ウノクは右目の視力を失っている。子供の頃、兄と遊んでいる時に、手製の火薬銃の弾が右目に当たってしまったのだ。その火薬銃は米軍から譲り受けたのであろう木片を組み合わせることで作られている。ウノクの顔はアメリカの銃によって片方が失われた半島の姿と重なる。さらに、彼女の運命を握るのが米兵であることも、半島の南側が立たされている状況と通じている。米兵はアメリカの瞳をウノクの顔にあてがい、これでアメリカになれると囁く。ウノクは米兵に身を任せるしかない。

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引き裂かれた魂たちは、互いに傷つけあい、さらにはその命を奪い合おうとする。そこには何の救いもない。敵の姿を見出すこともできない。この悲劇の加害者はいったい誰なのだろう。村にいるのは米兵と半島の人々、そして犬たちだけだ。そこにはアメリカを中心とする秩序がある。そこから転落した人間は犬のように生きるか、犬のように死ぬしかない。

*****

引き裂かれた半島に対する想いを描くという点では、『コースト・ガード』(過去記事)と通じるものを感じた。ただ、『コースト・ガード』ではみられなかったアメリカに対する複雑な想いがこの作品の主軸になっている。怒りや憎しみ、そして悲しみが入り混じることで生まれる複雑な想い。その想いの向かう先は定かではない。チャングクの母親が送り続ける手紙に、その行き場のない想いが凝縮されているのだろう。
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2005年12月01日

「春夏秋冬そして春」 過ちを乗り越えて生まれ直す

キム・ギドク監督の『春夏秋冬そして春』を鑑賞。昨年に続いて2回目。

物語の舞台は、山奥に佇む大きな池と、そこに浮かぶ小さな寺。その寺で育った男が辿る人生の変遷が、四季の移り変わりに重ねて描かれている。
この物語もまた、山や池、石といった、キム・ギドク的なモチーフをつかって紡がれている。超越的なものに触れることで魂を浄化させる通過儀礼が主題となっている点は、この作品の後に続く『サマリア』との繋がりを感じさせる。

*****

spring_summer09.jpg春から夏にかけて、男は過ちを犯す。抱えている煩悩が、彼にそうさせるのだ。その煩悩は、石との結び付きの中で描かれている。

春。まだ幼い小僧の頃、彼は悪戯をする。魚や蛙、蛇に石を結びつけて、それらが苦しむ様を眺め、嘲笑する。和尚はそれを咎め、罰を与える。彼は小僧の身体に石を縛り付けてしまうのだ。小僧は泣きながら罪を償おうとするが、それは叶わなかった。
そして夏。小僧は青年へと成長している。そこへ、ひとりの娘が寺を訪れる。娘との暮らしの中で、青年僧は恋に落ち、欲情を抑えきれなくなる。ある日、窪みのある大きな岩の上で、ふたりは交わる。それ以降も、和尚の目を盗んでは繰り返し交わり続ける。
ふたりの関係に気づいた和尚は娘を俗世に帰すが、青年はその後を追って、寺を去る。

秋になると、石はナイフへと姿を変える。彼の抱える欲望はさらに激しく、鋭いものになっている。そして欲望は執着を呼び、執着は殺意を生み出す。自分を裏切ろうとした妻を、男は刺殺してしまった。その後の逃亡の末、男は寺に戻ってくる。男の視線や振る舞いはとても荒々しい。俗世の中で、彼の心は乱されてしまったのだ。

*****

冬は、それまでに犯した全ての過ちを乗り越えるための、通過儀礼の季節として描かれている。そして、この冬に登場する男をキム・ギドク本人が演じているところが興味深い。この作品はとても私的なもので、彼自身のキャリア、あるいは、彼の人生の転換点になるようなものとして位置づけられるんじゃないだろうか。そして、この通過儀礼的なテーマは『サマリア』へと引き継がれている。

また、寺の浮かぶ大きな池は生死の境界であり、ここでは母性を意味しているように感じられた。この作品は、母性回帰的な志向がとても強い。そこにもまた、『サマリア』(過去記事)との繋がりを感じる。このふたつの作品は、基本的には同じものを描いたものなんじゃないだろうか。
posted by Ken-U at 03:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(キム・ギドク) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月15日

「コースト・ガード」 引き裂かれた半島が抱える痛み

キム・ギドク監督 『コースト・ガード』

日本では希薄になってしまった何かが、まだあの国には残っている。韓国の映画を観ていると、そういった印象を受けることが多い。民族や宗教観の違いがそうさせるのかもしれないけれど、戦争によって残された傷跡が、より大きな違いを生み出しているのだと思う。

大戦終結後も、あの半島では戦争が続けられた。その過程で、あの半島は南北に引き裂かれてしまっている。南北の間に引かれた38度線という境界は、あの戦争の悲惨さと、その悲劇がまだ終わってはいないという現実を表している。

一方、この日本は、半島を舞台とした戦争から多くの富を得ることによって大戦後の復興を早めることに成功した。そして、38度線が引かれてから数年の後には、既に「戦後」を脱したという宣言がなされるのである。もう「戦後」ですらないという日本と、まだ戦争を終わらせることができない朝鮮半島との隔たりは、とても大きいもののように思えてしまう。

*****

coast_guard00.jpg半島を南北に仕切る38度線、海に臨む国境地帯が物語の舞台となっている。そこは北からの侵入者を防ぐための特別な領域となっていて、軍隊の監視下にあり、民間人は立ち入ることを固く禁じられている。さらに、その境界域には、夜間の侵入者を無差別に射殺するという立て看板が立てられている。

特殊な境界域の近くには漁村がある。その村で暮らす若者ヨンギルは、ミヨンという娘と互いの想いを寄せ合っている。ある晩、泥酔したふたりは、立ち入りを禁じられた領域に踏み入り、浜辺で互いの気持ちを確かめ合おうとする。

カン・ハンチョルはその境界域で兵役に就いている。その晩、警戒域を監視していたカンは、侵入者を見つけると、即座に銃を構え、引き金を引く。放たれた無数の銃弾は、ミヨンの中にペニスを出し入れしているヨンギルの背中をつらぬき、彼の体を血にまみれた肉片へと変えてしまう。飛び散る血飛沫を浴びながら、ミヨンは泣き叫び、半狂乱状態に陥るのだった。

*****

ミヨンは恋人を失い、カンは軍から退く。その後は、ふたりが心を病み、そして生きながら亡霊となって、この境界域に関わる者たちを引き裂こうとする様子が描かれていく。そこで繰り返し描写されるのは、引き裂かれる者が受ける強烈な痛みである。そしてその痛みは、頭を叩き潰されながら身を引き裂かれたり、あるいは、釣り糸を咥えさせられたまま浜辺を引き摺り回される魚たちの姿にも重ねられている。

さらに、敵の不在。38度線を舞台にしていながら、この物語には敵であるはずの「北」の兵士たちの姿がない。兵士たちは、敵の侵入に備えているけれども、その敵が姿をみせることはない。彼らは、敵の幻影に翻弄されているに過ぎないのだ。

*****

キム・ギドクの作品といえば飛礫である。この作品の中でも、侵入者を射殺したことで表彰され、休暇を得たカンに向かって、ひとつの飛礫が打たれる。その飛礫はカンの頭に当たり、カンは流血する。

飛礫が打たれるシーンはこの1度だけだったけれど、この作品自体がキム・ギドクの飛礫となっているように感じられた。そして、その飛礫はこの作品を観る者に向けられているのだと思う。街頭で銃を構えるカン・ハンチョルの姿は、観客に向かって飛礫を打つキム・ギドク監督の姿と重なってみえる。

本作は、南北が争う姿を排除しながら、引き裂かれた半島が抱える痛みと、その不合理に対する強い怒りを見事に描いていると思う。
posted by Ken-U at 22:33| Comment(10) | TrackBack(6) | 映画(キム・ギドク) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月01日

「サマリア」 死と再生の旅

キム・ギドク監督『サマリア』 (恵比寿ガーデンシネマ)

少女がたどるイニシエーションの様子が描かれる。作品は、「バスミルダ」−「サマリア」−「ソナタ」の三部から成る。

samarian_girl01.jpg親友のヨゾンとチェヨン。ふたりの関係はとても親密で、チェヨンはヨゾンがいないと何もできない。ヨゾンとチェヨンはふたりでひとりというか、チェヨンはヨゾンの分身のように感じられる。冒頭、チェヨンは、ヨゾンに向かって自分はバスミルダだと告げるのだが、バスミルダとはインドに伝わる娼婦の名前で、バスミルダと交わった男たちはみな仏教徒になったという。ふたりはヨーロッパ旅行の費用を捻出するために援助交際をしている。チェヨンが体を売り、ヨゾンがマネージャー役を担当しているのだ。

ストーリが進むにつれて、チェヨンがヨゾンの分身であるという印象が強くなっていく。チェヨンはヨゾンの身代わりに男と寝ているように感じられる。しかし、ヨゾンはチェヨンの売春行為に手を貸しながら、その行為に強く穢れを感じていて、そこに罪の意識を抱えているようにもみえる。売春行為の後、銭湯でヨゾンがチェヨンの体を執拗に洗い清め、キスをして抱き合うショットが印象に残る。

死の直前、チェヨンは客のひとりに会いたいとヨゾンに頼む。そしてヨゾンはその客を訪ねるのだが、そこで彼女はその男に処女を奪われてしまう。時を同じくして、チェヨンはこの世から去っていく。この時、チェヨンとヨゾンはひとつになったというか、互いの魂を交換したのかもしれない。ヨゾンは、チェヨンの残した手帳と現金を清め、チェヨンと寝た男たちを呼び出してはチェヨンのように微笑み、チェヨンが飛び降りたホテルの部屋でその男たちと寝るのだった。彼女はかつて支払われた現金を男たちに返していく。こうしてヨゾンはチェヨンのいた世界に触れながら、チェヨンと自分を重ねていくのだった。

*****

娘の行為を知り苦悩する父親は、ヨゾンに母親の墓参りを提案する。そして父と娘の旅が始まる。ふたりは車で山を登る。この旅が、ヨゾンのイニシエーションであるように描かれている。山中で擬似的な死と再生を経験することによって、ヨゾンは大人になる第一歩を踏み出すのだ。

山の中で、父と娘は浄化されていく。旅の途中、美しい山と空の境界線を映し出すショットが頻繁に挿入される。天と地を結ぶ山が持つ超越的な力が、親子の魂に変化をもたらしているのかもしれない。最後の儀式は河原で執り行われるのだが、これも、境界的な領域における、ある種の通過儀礼であるのだろう。

*****

他の作品同様、本作でも境界的な領域で物語が進められる。売春行為の後、ヨゾンとチェヨンは川の中洲につくられた公園で遊ぶ。河原も頻繁に映し出される。そして石。男がヨゾンを車で河原に連れ込む時、父親は車に向かって飛礫を打って妨害しようとするのだ。物語の終盤も河原。それに、山や大きな池、売春、娼婦も含め、これらの要素はキム・ギドク作品に頻繁に登場する。

バスミルダに関する知識がないので、このあたりをもう少し知りたい。いつもヨゾンに微笑みかけるバスミルダ(チェヨン)はとても魅力的である。しかし、チェヨンの背景は明かされないまま、彼女はこの世から去ってしまう。親友であるはずのヨゾンも、チェヨンの家族のことや、その連絡先さえ知らされていなかった。それも彼女を実存しない幻、ヨゾンの分身のように見せる要因になっている。

父親が車の中でヨゾンにキリスト教にもとづいた奇跡の話を聞かせることも気になる。男を仏教徒にするバスミルダとキリスト教の奇跡を語る父親。その狭間にいるヨゾン。そしてヨゾンと寝た男たちは皆、幸福を口にする。あと、以前も書いたけれど、「石」についてもう少し考えたい。河原の石。それを投げる男。このあたりも紐解くと面白いかもしれない。

(関連記事:飛礫 石を投げるという行為/2005/09/25)
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2005年03月18日

「悪い男」 境界的世界の純愛物語

badguy01.jpg「悪い男」キム・ギドク監督。境界的世界に生きる男の純愛を描いた物語。

冒頭、街中を歩くハンギはひとりの女に目を奪われる。そして女の唇を恋人の前で無理やり奪い、居合わせた人々に取り押さえられる。その女、ソナを愛してしまったハンギは、仲間をつかって彼女を罠にかけ、彼女を遊郭街に閉じ込める。

やくざの世界に生きる男ハンギ。彼にできることは、愛した女を堅気の世界から奪い、自分と同じ世界に引きずり込むことだった。しかしそれ以上の術がない。彼にできることは、客をとるソナの姿を部屋に仕込まれたマジック・ミラー越しに見つめることだけだ。同じ世界の住人になったふたりの間にはまだ見えない壁が横たわっている。ハンギはただ見守り、苦悩するしかない。

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この物語は倒錯や屈折した愛を描いた物語ではない。あくまでもストレートな純愛の物語だと思う。

見えない壁に隔てられたふたりの間を最初に繋ぐのはエゴン・シーレの画集だ。ソナは書店で画集の中の一枚、男女の交わりを描いた絵を破りとって盗む。
その姿を見たハンギは画集をソナに買い与える。シーレの画集が意味するものは、剥き出しの感情ということだろう。処女でありながら性交を描いた絵を盗むソナの行為の中には、心の中に秘められた彼女の欲望が見え隠れする。ソナは潜在的にこの社会から奪われることを欲していたのかもしれない。その後も反発はしながらも、互いに惹かれ合い、ふたりの距離は縮まっていく。

物語最後の舞台は海。これも境界的世界を象徴している。遊郭街から海辺へ。物語の舞台を境界的世界にとどめることで、ふたりの情愛をより生々しく描いているように感じた。ふたりはこの剥き出しの世界から逃れることはできない。この世界の中でこそ、純粋に愛し合えるのかもしれない。

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キャスティングもとても良かった。ハンギ役のチョ・ジェヒョンはセリフがない中で熱演している。唯一口を開き、叫ぶ姿は心に響いた。あの言葉はハンギ自身に向けられていた。キム・ギドク監督は映画とは無縁に育った非シネフィル系の監督。それにしては作品が洗練されていることに驚かされる。才能って凄いな。

終盤、ちょっと詰め込みすぎ感がなきにしもあらずだけど、韓流ブームをはるかに超えた秀作だということは間違いない。まもなく『サマリア』も公開されるので、この新作もチェックしたいと思う。

(関連記事:「抱擁」 すべては生きながら死んでいる/2005/03/21)
posted by Ken-U at 17:52| Comment(2) | TrackBack(8) | 映画(キム・ギドク) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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