2008年05月18日

「ダージリン急行」 滑稽で哀しき旅

ウェス・アンダーソン監督 『ダージリン急行』 (恵比寿ガーデンシネマ)

原題:『THE DARJEELING LIMITED』

三兄弟はインドで再会を果たし、ダージリン急行で旅をする。

darjeeling_limited00.jpgそろそろ『ダージリン急行』のことをここに書き留めようと思い、その記憶をたどっていたら、なぜか芋づる式に町田康の『くっすん大黒』(過去記事)のことまでが思い出された。なぜ町田康が、とぼんやり思いをめぐらせてみたら、するとそのうち、たしかにこの『ダージリン急行』と『くっすん大黒』の間にはなにかしら通ずるところがあるのかもしれない、と思うに至る。どちらの作品も、なにか劇的な事件が起きるわけではなく、どちらかというと、些末で滑稽な物事の集積体のような世界が描かれているのだけれども、しかし摩訶不思議なことに、その幾重にも折り重ねられた滑稽な物事の隙間からある種の哀しみが醸し出されているのだ。それが馬鹿馬鹿しくて笑えてしまうのだけれども、その一方で、どこか哀しい。という意味で、この両作品は通ずるところがあるといえるのかもしれなくて、しかもそれはわたしの人生というか、わたしが身を置くこの世界ともよく似ている。

欠落を抱えた男がよろよろとしている。本作と『くっすん…』を結ぶもうひとつの共通点は描かれるディテールの妙味にあると思う。その中心に据えられているのは、何か大切なものを失った、あるいは深い傷を負った男がよろよろとする滑稽な姿である。中でも象徴的な描写をあげてみると、『くっすん大黒』でいえば、『なんとも歩きにくいことであるよなあ、って、砂浜。』という印象深いフレーズ。本作であれば、砂山の上でなにかしらわけのわからん妙なことをしてそこからあわててよろよろと降りてくる三兄弟の滑稽なあの様子である。とくに長男は、片脚を怪我しているうえに片方の靴まで失くしていて、そのよろよろ具合がことさら強調されていて、おかしい。しかも彼は、傷だらけである。おまけに顔面も包帯でぐるぐる巻きにされている。彼は、もう少しで死にそうなところまで追い詰められたのだけれどもなんとかぎりぎりのところで踏みとどまり、それからどうにかこうにかインドにまで辿り着いたのだ。しかしそれでも、自分の弟たちの前では虚勢を張ってみせたりしてなんとも滑稽な男である。

あと、ディテールといえば、オープニングとラストのあの光景が思い出される。このふたつの場面では、彼らが彼らの父親の記憶と決別する過程が示されている。オープニングでは、すでに走り出している列車に飛び乗ったあと、次男が振り返ってホームに取り残された初老の男をみつめる。その時、彼の瞳はどこか哀しげである。また、ラストでは、三兄弟がまたもや列車に飛び乗るのだけれど、そのとき、彼らは父親から譲り受けたスーツケースを放り投げてしまうのだった。取り残されてしまわないために、彼らは大事にしていたはずのあの父の形見を捨て去ってしまうのだ。オープニングとは違い、ラストにおいて彼らは、自らの意思で父的なものを捨て去り、列車に乗り込もうとする。ここで彼らは、彼らの父との決別を果たしたかのようにみえる。

とはいえ、父的なものとの決別ができるとしても、だからといってこの世にあの三兄弟の居場所が用意されたわけではない。彼らの前途はどう考えても多難である。鏡を見てみてもわかるとおり、あの傷が癒えるにはもうしばらく時間がかかると思う。わたしという存在はあまりに脆く、その魂は孔雀の羽根のようにふわふわとしていてなんとも儚い。しかし、それでも旅は続く。

2005年07月04日

「アンソニーのハッピー・モーテル」 幻とそこに集う仲間たち

bottle_rocket.jpg半額レンタルで、ウェス・アンダーソン監督の「アンソニーのハッピー・モーテル」を鑑賞。国内では劇場未公開で、原題は「BOTTLE ROCKET」。邦題の意味がわからん。リリースはDVDのみらしい。

アンソニーは心を病んでいて、療養施設に入っていた。退院の日に迎えに来てくれたのは、親友のディグナン。そしてディグナンはアンソニーにノートを渡す。そこには彼がつくった、犯罪の75カ年計画(!)が書き記されている。そして友人のボブをメンバーに加えた3人は、計画に沿って最初の犯行に向かう...

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ウェス・アンダーソン監督の長編第1作となる作品。すでに彼のスタイルは確立されていた。ユーモアや音楽のセンス。傷ついた者たちが集まり、擬似家族的なグループをつくるという物語。

オーウェン・ウィルソンが演じるディグナンは貧しい家庭で暮らしている。彼は嘘ばかりつくので、周囲から孤立してしまっている。ボブは裕福な家庭に育っているが、兄の振るう暴力に苦しんでいる。アンソニーは施設から出てきたばかり。この3人組は、ディグナンが生み出す嘘の世界を支えにしながら生きているようだ。そういった物語の構造は、「ライフ・アクアティック」とよく似ている。そしてまた、幻を生み出しながら生き延びようとしているウェス・アンダーソンの姿とも重なって見えてしまう。

妄想の世界を生きているディグナン。彼は妄想と現実の境界が把握できていない。仲間を堅気の世界から救い出すために、自分の仲間を強引に妄想の世界に引きずり込む。アンソニーやボブも、彼の計画が現実離れしていることが判りながら、それでも付き合ってしまう。現に、計画がうまくいったのは書店を襲った最初の強盗だけで、その後は計画が狂いっぱなし。そうした狂った状況の中で、仲間たちが離合集散しながら様々な物語が紡がれていく。

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オーウェン・ウィルソンの瞳には、たびたび深い孤独感が映し出される。「ライフ…」の時もそうだった。素晴らしい演技だと思うけど、そこには演技を超えたものがあるんじゃないだろうか。

彼が演じるディグナンが、刑務所の中で仲間たちのためにバックルを作っていて、それを面会に来たアンソニーとボブに渡す。そのバックルを受け取りながら、アンソニーは「ものづくり療法」という言葉をつかう。彼も療養所の中で経験したのかもしれない。ウェス・アンダーソンにとって、映画を制作することが「ものづくり療法」なんだろう。だからどの作品も極私的なものになってしまう。

出演している俳優にも見覚えのある人達がいる。ウェス・アンダーソンが紡ぎ出す幻の世界に集まる、馴染みの役者たち。撮影現場の様子は、この作品ととても似通ったものなんだろう。そうやって創り出された幻の世界は、スクリーン(あるいはモニター)の上に投影されて、観る者の心に届く。そしてすっかり魅せられてしまったぼくは、自分も彼らの一員になったような錯覚をおぼえてしまった。

2005年06月25日

「ライフ・アクアティック」 This is an adventure

life_aquatic00.jpg

ウェス・アンダーソン監督の「ライフ・アクアティック」を再び鑑賞。やはり傑作。素晴らしい作品だ。その想いが揺らぐことはなかった。なぜ世間の評価がもうひとつぱっとしないんだろう。納得できない。この作品について書くのは2回目なので、今回はネタをばらしながら書いてみる。

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『This is an adventure』

スティーブ・ズィスーは海洋冒険家。そして冒険の過程を撮影し、ドキュメンタリーを制作するフィルム・メイカーでもある。前回も書いたように、このスティーブ・ズィスーの創作行為には、ウェス・アンダーソン監督の映画制作のプロセスそのものが投影されている。冒険とは境界的世界への旅である。そして無意識の領域に迫りながら新しい価値を生み出すという、創造的行為と深い繋がりを持っている。つまりこの作品において、冒険とは創造的行為の象徴であるのだと思う。

その創造の現場が物語の舞台に据えられている。この点は前作の「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」とは大きく異なる点である。閉じこもっていた部屋を出て、不確実性に満ちた海へと踏み出すことを決意したウェス・アンダーソンの意思そのものが、この作品に刻み込まれているように感じてしまう。カオス的世界の中で、自らの身に降りかかるなにもかもを受け入れながら、それでもスティーブは海へと向かうのだ。

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人生とは、不確実性に満ちた冒険のようなものだ。その不確実性によって、人間はしばしば傷を負ってしまう。チーム・ズィスーのメンバーも、それぞれに傷を抱えながら生きている。とくに父親との関係に問題を抱えるている人間が多いようだ。スティーブ・ズィスー本人もそうだし、クラウスもそう。ジャーナリストのジェーン・ウィンスレット・リチャードソンは、父親を持たない子供を生もうとしている。父親を持たぬまま育ち、母親を自殺で亡くしてしまったネッドもそのひとりだ。

ネッドはスティーブのことを父親だと思い込んでいる。そのスティーブは、自分とネッドの間に血の繋がりが無いことを知りながら、彼を息子として受け入れていく。スティーブの息子として認められることによって、ネッドは生まれ直すことができた。ネッドに嫉妬していたクラウスも、やがて彼への態度を改める。その証として、クラウスはネッドに敬礼してみせる。その滑稽な姿には心動かされるものがある。

ネッドが船中を歩いていると、ジェーンがお腹の中の子供に向かって本を読んで聞かせている姿を見つける。それをきっかけにして、ネッドはジェーンに惹かれていく。ジェーンの姿に、母親の面影を感じたのだろう。ジェーンもネッドを受け入れ、スティーブとの間に奇妙な三角関係ができあがってしまう。

スティーブから、そしてジェーンから受け入れられ、ネッドは新しい人生を生き直そうとする。しかしその矢先に起きた事故によって、彼は命を落とす。このネッドの死はとてもショッキングなものだった。その後、ネッドの亡骸を入れた棺が海に沈んでいく。その様子を眺めていて、思わず涙が出てしまった。

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スティーブ・ズィスーは全てを受け入れる。血の繋がらない男を息子として認め、その死も現実として受け入れる。クラウスをBチームからAチームに入れてやる。海賊が残していった、犬のコーディ(脚を1本失っている)を受け入れ、彼との別れもまた受け入れる。くだらない映画祭にも参加する。そうして身に降りかかるなにもかもを受け入れながら、それでもまた海へと向かうのだ。冒険とは創造的な行為のようであり、心の傷を克服するための旅のようでもある。たぶんその全てが冒険なんだろう。冒険とは人生そのものなのかもしれない。そう思えた作品だった。

(関連記事:「ライフ・アクアティック」 人生は冒険である/2005/05/23)
(関連記事:「天才マックスの世界」/2005/02/17)

2005年05月23日

「ライフ・アクアティック」 人生は冒険である

life_aquatic1.jpg昨日はウェス・アンダーソン監督の「ライフ・アクアティック」を鑑賞(オフィシャル・サイト)。

彼は素晴らしい作家だということが再認識できた。この作品は、ある海洋探険家の物語であり、居場所のない人々の物語であり、映画監督の苦悩を描いた物語であり、断絶した父と息子が抱える愛憎の物語だった。そして笑いながら観ることのできる娯楽作品でもあった。

この作品に対するぼくの想いはうまくまとまらないけど、自分なりの雑感を極力ネタをばらさずに書いてみようと思う。とにかく観る価値のある作品だということは間違いない。

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海洋探検家でありドキュメンタリー作家でもあるスティーヴ・ズィスー。彼のドキュメンタリー製作をめぐる物語には、映画制作者であるウェス・アンダーソン自身が抱えている苦悩が投影されている。また、ズィスーは居場所のない孤独な男として描かれていて、このキャラクターにはウェス・アンダーソン自身と、(たぶん)彼の父親の姿が投影されているのではないかと思われる。彼が、彼の船ベラフォンテで行われているパーティを独り抜け出した時に、デヴィッド・ボウイの「Life On Mars?」が流れる。これで序盤から痺れてしまう。この作品にはデヴィッド・ボウイの「あの頃」の曲が効果的につかわれている。それもぼくのツボを刺激する。この「Life On Mars?」の歌詞の一部を引用しておこう。

Sailors fighting in the dance hall
Oh man! Look at those cavemen go
It's the freakiest show
Take a look at the Lawman
Beating up the wrong guy
Oh man! Wonder if he'll ever know
He's in the best selling show
Is there life on Mars?


*****

そしてズィスーのもとに、彼の息子であるらしい男ネッドが現れる。ネッドは、ズィスーと彼の元恋人との間に生まれた子供らしい。ズィスーはネッドをチーム・ズィスーに迎え入れ、「ジャガー・シャーク」探しの航海に出る。その幻の鮫は、彼の親友であり片腕でもあったエステバンを喰ったとされている。

この物語には、「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」と同様に、子供を捨てた父親と息子の愛憎劇という側面がある。そして、その親子の関係は「ザ・ロイヤル…」以上に複雑なものになっているように感じた。

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「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」と共通するテーマを持ちながらも、この作品から受ける印象は、「ザ・ロイヤル…」から受けるものとは異なっている。この「ライフ・アクアティック」が、海を舞台にした冒険の物語だというところがとても重要なんだろう。居場所のない男が海深く潜ることの意味。そしてスティーヴ・ズィスーは「チーム・ズィスー」や、自身に降りかかる諸々の面倒を全て引き受けようとする。

この作品においてウェス・アンダーソンは、自分の内的な世界から踏み出すこと、捨てられた息子であることを乗り越えること、そして人生(もしくは映画制作)という冒険にあらためて臨むということを宣言しているのかもしれない。

(関連記事:「ライフ・アクアティック」 This is an adventure/2005/06/25)

2005年02月17日

「天才マックスの世界」

rushmore.jpg「天才マックスの世界」ウェス・アンダーソン監督。私立校ラッシュモアに通う男の子マックスと周囲の人々が織りなす物語を描いた青春映画。

自分の父親が脳外科医だと嘘(実際は床屋)をついているマックスは誇大妄想気味で、彼の言葉や行動は自身の身の丈に全く合っていない。ありとあらゆる課外活動に精をだしているが勉強の方はさっぱりだ。校長からも嫌われ、成績の悪さから退学の危機に陥っている。

身の丈に合わなさ加減を象徴しているのがマックスの初恋だ。新人教師のローズマリーに恋心を抱き、背伸びをしながら懸命にアプローチする。しかしもちろん叶うことはない。叶うどころか彼女はマックスの数少ない友人のひとりであるハーマン・ブルーム(マックスの同級生の父親)と恋に落ちてしまう...

しかしマックスは失恋や退学などの挫折にめげることなく、自身が引き起こすトラブルに傷つきながらも成長し、少しずつ等身大の自分へと近づいていく。

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ウェス・アンダーソン監督は、このほろ苦い物語を独特のユーモアで包み込んでいる。マックスをとりまく世界に送られる彼の視線はとても繊細で、かつやさしさに満ちている。観ているこちらは、オフビートなネタについ噴き出し笑ってしまったかと思うと、ツボをつつかれてホロリとさせられたりと忙しい。人は人生の中で皆傷つき、癒し癒されながらそれを乗り越え、もしくは癒えない傷を引きずりながら生きていかなくてはならない。彼の作品に触れるとそういったあたりまえのことを再確認させられる。

マックスは自身が演出する演劇に唯一その才能を発揮する。W.アンダーソンはマックスに自身の昔の姿を重ねようとしているんだろう。上映された「セルピコ」と「地獄の黙示録」のパロディーにはなにか思い出でもあるんだろうか。このあたりは、とても私的な演出であるような気がする。ちなみに、マックスを演じたジェイソン・シュワルツマンはコッポラの甥にあたる。

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物語を章に分けながら綴るスタイルは「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」とも似ている。全体に漂う雰囲気、笑いのセンスや音楽のつかい方も共通していると思う。THE WHO, THE ROLLING STONES, THE KINKS, JOHN LENNONといった懐メロを効果的につかってる。難点は邦題とカバー・デザイン。もうすぐ日本でも新作が公開されるんじゃないだろうか。楽しみだ。

このブログを始めた時にも書いたけど、「ザ・ロイヤル…」はとくに期待もせずに観に行った。しかし上映が終わると館内で目立って感激してしまった。とにかく涙が止まらなくて、一緒に観た女性に呆れられた憶えがある。それ以来、このウェス・アンダーソン監督には一方的に友情を感じている。P.T.アンダーソン監督とならんで、このふたりのアンダーソンはアメリカ映画の希望だと思う。
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