2010年07月03日

「虹の理論」 七色の誘惑者、その半音階的な響きと歌

中沢新一著 『虹の理論』 (講談社文芸文庫)

虹と病気と毒について。虹色の身体を持つ蛇と庭園、市の関わりについて。

rainbow.jpg大地から立ち昇る七色の虹。その色彩はどこから生まれ出てくるのだろう。光と水の反射だけがその理由なのだろうか。ラマ僧によると、虹を光学現象として理解したとしても、虹という現象そのものが持つ秘密を解明したことにはならないのだそうだ。それは時計をもって時間の秘密を解き明かすことができないことと同じで、光の運動を機械的になぞったとしてもその謎の奥深い部分に辿り着くことはできないというのだ。確かにそう考えていくと、虹が持つ色彩、描く弧の謎が謎として再発見され、その得体の知れなさに驚愕する。虹は人の意識を奪い、心を魅了する誘惑者である。そして高度化された社会において、この誘惑者は人工的に模造され、大量に撒き散らされているのだけれど、わたしはこの乾いた虹の世界をどう生き抜けばよいのだろう。

もっとたくさんの朝の鳥たちが、「虹の蛇」の身体からとびたたなければならない。もっと高く、もっと空気の軽いところまで、それをもちあげていく羽根の力が必要だ。大地への郷愁から解放されなければならない。大地の底にむかっておりたっていくのではなく、大地もその一部である宇宙としての自然のほうに、じぶんを撒布させてしまうのだ。(p.100-101)

かつての社会では、虹の立つところに市場を開き、そこでモノの売買をしたのだという。虹の持つ魅力と、毒と、庭、市の関わりについて、人工的な虹を撒き散らす現代社会において市がネット上に現れることの意味について、幸福であること、幸福を目指すことの意義、あるいは「幸福」という言葉そのものの意味、その未来について、どこにも辿りつくことのない問いを繰り返しながら虹のない空を見上げた。わたしは飛び立つことができるだろうか。
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2010年02月27日

「純粋な自然の贈与」 無から有へ、溢れ出る精霊たち

中沢新一著 『純粋な自然の贈与』 (講談社学術文庫)

無から有へ。自然界から人間界へ。流れるもの。富、贈与。

don_pur_de_la_nature.jpg富を、自然界から人間界への贈与であると考え、捕鯨、神道、農業、冬の祭り、あるいは音楽やゴダールによるバスケットボールの描写などの様々な領域を横断しながら、自然界から富を引き出すときに揺れる人間の心、その流動性と精霊、あるいは資本主義との関わりなどについて、縦横に、自在に言葉が編まれている。

その言葉の連なりは、のちの『カイエソバージュ』(過去記事)に受け継がれ、そして芸術人類学、あるいはくくのち学舎の一連の講座へと繋がっていったのだろう。そして感じたのは、人間の創造性と贈与、あるいは豊かさと悦びが心の深いレベルで互いに繋がり合っているということ。きっと、幸福は人間による悦びの創出、つまり創造の行為にかかっているのだろう。真の創造は悦びを生み、そして暮らしの中に豊かな富をもたらすのだ。

しかし創造的な仕事のための領域は、今、どれほど残されているだろう。自然界と人間界の狭間で仕事をする職人たちの歴史(過去記事)を紐解くまでもなく、自分がこれまで経験してきた職場環境の変化だけを考えても、創造的な仕事を成り立たせるための領域は間違いなく狭まりつづけている。

この世に生み出される富は限られている。そしてその希少な富を奪い合うのがビジネスなのだと思う。つまり、我々はすでに生み出された富を机上にのせ、我が取り分を明確にするために、その富の上に仕切り線を引こうと躍起になって右往左往しているにすぎないのだ。その有様はある種の戦争のようにもみえる。だから上層部は、ビジネスと戦争をしばしば重ねて語るのだけれども、しかしよりよい暮らしのためには、その文脈から外れ、悦びのための、新たな富を生み出すための仕事について考え、実践する必要がある。そうした新しい仕事との関わりについて、今後、試行錯誤を繰り返していきたい。
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2009年08月15日

「緑の資本論」 大量生産・大量消費を乗り越え、そして未来へ

中沢新一著 『緑の資本論』 (ちくま学芸文庫)

利潤否定のイスラム経済を高度資本主義の鏡に。

green_capital.jpg八年前の九月、崩落するビルの様子を茫然と眺めた。この『緑の資本論』が出版されたのはその半年ほどあと、2002年の春のことだ。それから約七年の年月が経ち今回の文庫化に至るのだけれど、とても残念なことに、七年の年月を経てもこの世の在り様はあいもかわらず。その後も続く暴力の連鎖はこの世から夢と希望を強奪し続け、極限まで膨張を続ける資本主義経済は自滅の道をたどり破綻しかけている。今年、アメリカで、そして日本で政権交代が実現するけれども、この先、この社会、この経済にどれほどの改善がみられるのだろう。たとえ政権が代わり、予算の配分に多少の変化がもたらされたとしても、その背景となる経済の構造そのものにはそれほど大きな変化がないようにも思える。というのも、この高度資本主義経済に代わる新たなシステムがこの世に存在しないからだ。

本書は、そうした現状認識に疑問を投げかけている。資本主義の原理にイスラム経済の基礎となるタウヒードの論理を突きつけることによって、資本主義の在り方を相対化し、その普遍性に異議申し立てを行っているのだ。また、この対比は、現在のキリスト教、イスラム教圏の対立の構図と重ねて捉えることができるため、単に経済の枠にとどまらず、キリスト教とイスラム教の差異であるとか、アメリカとイスラム原理主義の政治的対立の背景を読解するための助けにもなる。

イスラムは利子を否定する。純然たる一神教であるイスラム教では、神から離れた場所で貨幣が貨幣を生み、自己増殖することを決して認めることがないのだ。もし、貨幣が神から離れてひとり歩きを始めれば、貨幣増殖のために商品とその価格は規格化、画一化され、大量生産されて、やがてその膨大な商品の集積体が市場そのものを疲弊させ、やがてこの世を地獄へと変えてしまう。

*****

この後に認められるのはただ、経済的強者のみが貨幣の提供するこの機会をわがものとし、全力をつくして蓄財のための販売に走り、社会の内部に流通する貨幣を自分の宝庫にためこむために、生産、販売を継続する。彼らは徐々に流通する貨幣を吸収し、生産と消費の媒介としての交換のもつ役割を麻痺させる。そして多くの大衆を悲惨と貧困の淵に転落させてしまうのである。その結果生産活動が麻痺すると同時に、人々の経済的水準の低下と購買力の欠如が原因で、消費も停滞する。消費者の購買能力の欠如、低下は生産から利潤を奪い、停滞を経済生活の全部門に行きわたらせるのである。
(p.64 / ムハンマド・バーキルッ=サドル 『イスラーム経済』からの引用部分)

*****

大量生産・大量消費型社会の中で溺れるように生きていると、もっと人間に近い領域で営まれる市場、例えば本書で例示されている中東のスークの在り方などには考えさせられることが多い。正直、ひとりの商人として、すでに飽和しているようにみえるこの市場に向かってさらに商品を詰め込むという行為を仕事とすることには罪悪感というか半ば恐怖を感じてしまう。できることなら、この残酷な経済を乗り越え、よき未来のための新たな仕組みづくりに向かうための仕事に関わることができたらと思う
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2008年12月27日

「映像と目に見えない存在」 人馬一体のイメージ、映像、映画とは何か

21世紀文化論『映像と目に見えない存在 image and invisible』 (芸術人類学研究所)

出演:高木正勝、大淵靖子、中沢新一

homicevalo00.jpg冒頭で『Homicevalo(ホミチェヴァロ)』の上映。その後、鼎談の中で、その製作の背景、撮影時のエピソードなどが披露された。『Tai Rei Tei Rio』(過去記事)のときは少しだけ遅刻してしまい、この作品の冒頭数分を見逃していたので、ここで見直すことができてなによりそれがよかった。

人馬が一体となる。人と馬の身体が融け合いひと塊の光となってゆく様子に、神話「馬娘婚姻譚」のイメージが重ねられる。ほぼ無声の映像なのだけれど、冒頭の数ショットを観るうちから、この作品はある種の映画なのだと感じた。実際、その後の鼎談の中で、中沢さんと高木さんの口からこれは映画である、という言葉が出て、大いに納得すると同時に、映画とは何かという『狩猟と編み籠』(過去記事)に繋がる問いが、頭の中をめぐった。さらに、馬とはいったいなにものなのだろう、という疑問も再び湧きあがってきて、つまり、この『Homicevalo』は多くの刺激を与えてくれるよい作品だと感じた。

その後、『NIHITI』、『Lava』、『Tidal』が上映された。『NIHITI』の鑑賞もこれが2回目だったけれど、暴力と恍惚が入り乱れるあの摩訶不思議な映像世界にすっかり魅了されてしまった。人は、内面に抱える暴力の衝動とどう向き合っていけばいいのだろう。そして最後、これは高木正勝と直接関係しているわけではないのだけれど、芸術人類学研究所のお薦めである『Zingaro』の映像もとてもよかったので(残念ながら、ここではメディアの不調によりほんの少しの映像しか観ることができなかった)、できれば年明けのライヴを観にいきたいと思う。それもこれも含めて、予想以上に収穫の多い企画だった。

前回の『表現の新しい可能性』(過去記事)から始まる、中沢、高木両氏の蜜月はこれからも続きそうだ。来年は、ふたりのやりとりの中からさらにアクロバティックな企画が飛び出してくるかもしれない。期待は膨らむ一方である。
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2008年08月10日

「狩猟と編み籠」 視覚的音楽としての映画、その洞窟性

中沢新一著 『狩猟と編み籠 対称性人類学2』 (講談社)

『高度の(最高の?)段階にある対位法は、その基本的特徴において、人間活動の最も原始的な段階に存在した二つの本能的原理を反復しているように、私には思われる。(中略)
 私の念頭にあるのは、きわめて原始的な二つの人間活動―つまり、狩猟の仕事と編み籠の技能―である』(S.エイゼンシュテイン著「無関心な自然でなく」p.56-57)


die_jagd_und_ein_gewebter_korb01.jpg中沢さんの新著の題材が映画であると知ったときは、少し意外な感じがした。けれど、ふと思うと、コアな映画ファンが劇場に執着する(映画は暗闇の中、スクリーンを通して観る必要があると考える)ことからもわかるように、映画の構造は古代の洞窟における儀礼に通じるところがあり、だとすれば、中沢さんが映画論を執筆してもなんの不思議もない。実際、本書の大半はこの映画の「洞窟性」に関する叙述が占めている。現生人類が暗闇の中で心の奥底に触れるための儀式を執り行っていた十万年以上の昔、すでに近代における映画の出現が予言されていた、と彼はいうのだ。

中沢氏は、人間が生み出すイメージを以下の3群に分けている。

第1群:流動的知性に触れる抽象的イメージ。
第2群:「イメージ第1群」が物質と触れることで生み出される具象的な像。
第3群:複数の具象的な像が水平的に結びつくことで生み出されるイメージ群。物語を生む

これら三つのイメージは、ともに古代の洞窟に描かれた絵画の中に見出すことができるが、同様に、近代の映画の中にも存在する。と、中沢氏は指摘する。

また、映画史の中で、こうした映画の「洞窟性」に最初に着目したのはセルゲイ・エイゼンシュテインであるといい、上に引用した彼の言葉が紹介される。さらに、ショットとして切り取られたイメージの断片を「モンタージュ」的に構成することで視覚的音楽の流れをつくりだす、というエイゼンシュテインの言葉がいくつか紹介されている。その一部を以下に引用する。

『厳密にいうと、純粋に造形的見地からすれば、あらゆるショットの表面全体は、いかなるものであれ、独自の音調的あるいは色彩的「風景」である。しかしその理由は、ショットが描写している内容にはなく、モンタージュ断片群の連続的流れの内部で全体として知覚されるショットが担うべき情緒的感覚にある。(前掲書p.174)』

たしかに、優れた映画を観ていると、ショットのひとつひとつやその流れから様々な情感が湧きあがってくるし、その情感はしばしば描かれるショットの表層を超え、その内部、あるいはその底部を突き抜けてあらぬ方向へと流れ、膨らんでいく。だからよい映画は対位法的な構造をしているのだろうし、その視覚的音楽の響きにわたしの心が共鳴するとき、深い感動が得られるのだ。

映画とは音楽である。と考えるときに思い浮かぶのは、『アワーミュージック』(過去記事)という映画のタイトルである。本書を読み進めつつ、そのうちこのゴダール作品を再見して、『戦艦ポチョムキン』にも挑もうと思った。本書を通して、自分の脳内で、映画と音楽、そしていま少しずつ読み進めている『神曲』やあるいは貨幣、贈与、精霊などの多種多様なイメージが繋がり、そしてある種の旋律が奏でられた。この本もまた音楽的であるなあ、と感じた。
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2008年06月15日

「チベットのモーツァルト」 言葉の世界の彼方へ

中沢新一著 『チベットのモーツァルト』 (講談社学術文庫)

 「だが、『H』における意味の微分法は、同時にこのうえなく豊かな官能性に裏打ちされている。テクストをかたちづくる言葉の群れに、腰のあたりがうずいてくるような、松果体がふるえだすような、リズムのうねりがあたえられているからである。
 エレガントな記号の解体学。微分法の官能性。クリステヴァはそれを「チベットのモーツァルトのような」と形容した。(p.15)」

unne_sorte_de_mozart_tibetain.jpg中沢新一の処女作である本書には、彼がネパールから帰国して間もないころに綴ったいくつかの文章が収められている。ネパール時代、彼がチベット仏教の修行に身を投じていたのはよく知られた話だけれど、その痕跡は本書のいたるところに見受けられる。さらに処女作であるという背景も手伝って、ここに刻まれた言葉のつらなりからは、のちに芸術人類学、あるいは対称性人類学と名づけられる彼の思考の原点が感じられる。それは言語の世界を逸脱するための言語というか、言葉による意味の世界を抜け出て、その彼方に広がる無限の領域へ向かおうとする思考の軌跡のようなものだ。しかしそれは一筋の運動体というわけでもなく、明確なかたちも持たず、名を与えられてもいない。そこにあるのは、つらなる言葉のあちらこちらから湧き出る多種多様なイメージであり、そのイメージ群がたがいに結びつき、あるいは溶け合うことによってぼんやりと浮かび上がるある種のヴィジョンである。

先々月の終わり頃に本書を手にとり、それからチベットをめぐる悲劇についてはもちろんのこと、そのほかにも音楽のことや映画のこと、あるいは友人や職場のことなど、自分をとりまく様々な事柄に想いをめぐらせながら読み進めた。ということもあって、とくに先日のミニマル・ハウスについての記録などには、本書にある「打つ音」をめぐるイメージの影響がそのまま反映されている(過去記事)。また、読了後、年内にダンテの『神曲』を読み始め、それからあらためてゴダールの『アワーミュージック』(過去記事)を鑑賞したいと思った。

*****

最後に、先日行われた『チベットの平和を願う集会』の取材記事へのリンクを貼りつけておく(link)。そこで、中沢新一、ペマ・ギャルボ両氏による対談の様子が紹介されている。ぼくがチベットに対してできることは、祈ることと、彼らが大切にしている心の捉え方について少しでも理解を進めること。些細なことではあるけれど、些細なことの中にこそなにか大切なものが隠されているかもしれない、とも思う。
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2007年07月22日

表現の新しい可能性 ― sound and image

takagi_masakatsu00.jpg

21世紀文化論 第4回講座
『表現の新しい可能性 sound and image』 (芸術人類学研究所)

ゲスト:高木正勝 (Takagi Masakatsu)

このイベントの告知をきっかけに高木正勝の存在を知り、彼のウェブ・サイト(link)をチェックすると、ぼくはすっかり興奮してしまった。彼が生み出した音と映像の断片を覗き見しただけで、もうこれだと直感してしまったのだ。そして久しぶりに多摩美まで足を運ぶことにした。定員200名の会場には人が溢れ、開始直前に入場したぼくは2時間ほど立ち続けなければならなかった。

やがてステージ正面のスクリーンに作品が映し出され、さらに上映と並行して、高木正勝氏と長谷川祐子氏との対談、そして中沢新一氏を交えた鼎談が行われたのだけれど、彼の作品の素晴らしさといったら、中沢氏らの言葉がすっかり霞んでしまうほどの魅力に溢れていた。彼が活動を始めた最初期の、ヴィデオに収められた旅先の映像でさえすでに「作品」の域に達しており、これが才能というものなのかと感嘆し、そこにある種の天才を感じた。けれど、対談の中で、実際の創作活動は地道な情報収集(サウンド、映像イメージの学習)に支えられていることを知り、これは努力の賜物(タマモノ)なのだと自分の安易な印象を修正すると同時に、創作の秘密の領域にわずかながら触れることができたような気がして、そこにささやかな悦びを感じることができた。

さらに興味深く思えたのは、中沢氏が、高木氏の作品を観たときに背筋が寒くなるほどの感動を覚えた、というと、高木氏は、19歳の頃から(彼は現在27歳)中沢作品の熱心な読者であり、彼の書棚には中沢氏の本しか並んでいない、と返すという、高木、中沢両氏の相思相愛ぶりだった。そして高木氏の次の仕事は細野晴臣の映像制作であったり、さらに、このイベントをプロデュースした長谷川祐子氏は『マルレーネ・デュマス ― ブロークン・ホワイト』(過去記事)のキュレーターであったりと、脳内で過去の経験がいろいろと繋がり、広がっていき、その連鎖が新たな刺激として脳内にフィードバックされていくのが心地よかった。風邪を押して観にいくだけの価値のあるとてもよいイベントだったと思う。
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2007年03月25日

「対称性人類学」 高次元空間と曼荼羅

中沢新一著 『対称性人類学 カイエ・ソバージュX』 (講談社選書メチェ)

シリーズ完結編。第五巻。

cahier_sauvage5_01.jpg昨春、芸術人類学研究所の創設に刺激され、この『カイエ・ソバージュ』シリーズ全5冊の再読を思い立った。それから約1年の月日をかけて、ようやくこの『対称性人類学』まで辿り着くことができた。再読とはいっても、読み進めていて新鮮に感じる言葉が多々あったり、自分自身の考えだと思っていた事柄を文章の中に見出すことなどがあって、予想以上に多くのことを(再)発見できたような気がする。この再読を通じて、人間は2度と同じ脳を使わないという脳科学者の言葉をふと思い出した。

3年ほど前からずいぶんと長い間、働きもせずに毎日ぶらぶらとしていた。そのぶらぶらした日々や、去年の春、熊野の森に初めて足を踏み入れたり、それから会社に復帰をしてみたりと、いろいろと私的な経験を積み増したこともこの(再)発見の背景になっているのだと思う。日常の暮らしの中でも、過去の自分とは感じ方が変わったというか深まったことを実感する機会が増えた。経験の蓄積とともに、自己は更新され続ける。加齢とともに変化しつつ、自分が自分自身に近づいているという不思議な感覚を味わうことができている。

*****

ところで、我々が暮らすこの世界は、人間の知覚を超える高次元空間の一部分に過ぎないのだろうか。この『カイエ・ソバージュ』全編に渡って繰り返される「流動的知性」という言葉と、その「流動的知性」が必要とする「高次元空間」について考えていると、例えば南方熊楠の「南方曼荼羅」(過去記事)やダライ・ラマが語った「空(くう)」(過去記事)のことなどが思い起こさる。それは、この「対称性人類学」が仏教の影響を強く受けているせいなのだが、このイメージにリサランドール博士の「五次元空間理論」(過去記事)を重ね合わせてみると、「高次元空間」や「曼荼羅」という概念が概念の枠を超えてこの宇宙の未知の領域と繋がってしまう。宇宙を高次元の成り立ちをしたマトリックスだと考えるランドール博士の理論が、仏教における曼荼羅の概念ととても近しいものであるように思えてしまうのだ。

本書によると、高次元空間においては、全体と部分との違いがなくなり、時間という概念でさえその意味を成さなくなるという。おそらくその超越的な領域は、極限的にエロティックな空間だと考えることができるだろう。永遠と一瞬が混在する領域の中では、あらゆるものの境界が溶け、すべてが渾然一体となる。そしてその特別な領域に呑み込まれる個体は、すべてを粉々に打ち砕かれ、強烈な苦痛とともにえもいわれぬ悦楽によってその全身を貫かれるのだ。

この世界は、本当にそのような超越的時空に覆われているのだろうか。もしそうであるのなら、一体であったものが永遠に引き裂かれ続けるのがこの宇宙の根源であるというビッグバン理論が根底から覆されてしまうだろう。そしてこの宇宙に身を置く人々は、あらゆる価値観を更新する必要に迫られる。宇宙の広がりは無限であるだけに、ぼくのこの宇宙をめぐる妄想も際限なく膨張を続けてしまうのだった。
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2006年12月17日

「森のバロック」 熊楠が遺した思想の子供

中沢新一著 『森のバロック』(講談社学術文庫)

「ぶらぶら病」に冒された南方熊楠は、故郷を離れ、サーカス団とともに北米を放浪したのち、イギリスへと辿り着いて博物学と出会う。その後、南紀へと戻り、熊野の森の暗闇に身を潜めながら、人間の心の奥底へとダイブし、あらゆる不思議がこの宇宙をとり巻く様子を曼荼羅と捉え、その体系化を試みようとする。

mori_no_baroque01.jpg本書は南方熊楠の伝記というわけではなく、かといって熊楠の思考や言動の軌跡をたどろうとするものでもない、と中沢氏はいう。

私はこの本で、南方熊楠の生涯のうちで、「もっとも深く体験されたもの」、それだけを注意深く取り出そうとした。論文や書簡に表現されてあるものをこえて、そこに表現された言葉の下ないしは内部で、ひそかに歌われていた歌を聞き取ることのほうに、私は全神経を集中した。こういう方法で、私は彼について語られてきた「一切の認知しうる歴史」をこえて、南方熊楠という法外な生命体の、もっとも内奥に潜む思想のマトリックスに、たどりつこうとしたのである。(p.4)

カイエソバージュ・シリーズT『人類最古の哲学』(過去記事)で重要な役割を担っていた熊楠の論文『燕石考』が本書でもとりあげられている。燕の巣の中に隠されていて、女性の安産を助ける魔力を持つとされるこの幻の石に関する民俗と、さらにそれを読み解く構造人類学的な分析を読み進めながら思考をめぐらせていると、ふと本書が熊楠の「思想の子供」をとり出すための「燕石」であることに気づかされる。生命体の生と死、この世とあの世、男と女、そして動物と植物といった隔てられた領域の境界線をこえて、さらにその奥に広がる秘められた領域に迫りながら、「多様と統一を結ぶものについて、連続と非連続をつなぐものについて、また変化と創造をひきおこす力について(p.44)」、熊楠が南方曼荼羅としてつかみかけた思想の胎児を、言葉による「燕石」の魔力をつかってこの世に取りだそうとしたのがこの『森のバロック』なのではないだろうか。そして10年余りの歳月を経て、この「思想の子供」は、「対称性人類学」と名づけられ、また「芸術人類学」へと成長と遂げたのだと思う。

名づけられる前の段階にあったこの「思想の子供」は、まだ「学」としての輪郭を持ち合わせてはいないために、ときに荒々しく、また中沢氏自身がいうように「怪物的な」立ち振る舞いをみせる。しかし、ぼくはその野生的な部分にとても強い魅力を感じた。とくに、すべての人間が心の中に抱える暴力的で残酷な部分、あるいはその残酷を隠蔽する近代人の冷酷な態度、その背景にある心の脆さ、そしてその脆さを代償するための妄想的な精神の装置(例えば「美しい国家」というフィクション)など、今現在のぼく自身が強く興味を抱いている物事が、燕石などの伝承や粘菌の生態、そして熊野の森の暗闇などと繋がりあいながら、それが大きな流れとなってひとつの宇宙樹を描いていく様子は刺激に満ちたものだった。

*****

最後に、人柱の伝承をめぐる南方民俗学に関する文章を一部引用して、このエントリーを結ぶことにする。

南方民俗学は、ひとつの主体をつくりあげようとしているのだ。それは、社会の中にある主体ではなく、社会化のプロセスを生きる主体であり、カオスに身を置いて、散逸構造を生きる主体であり、「本源的暴力」が不断にくりひろげられている精神の始源に触れる主体であり、主体化のプロセスだけがあって、主体などはどこにも存在しないような生命にほかならない。一言で言えば、人柱は現実であり、私の内部では人柱の残酷な儀礼が、つづけられている、と断言するのが、南方民俗学の主体なのだ。犠牲に捧げられているのは、私なのだ。犠牲の殺害者も、私だ。そしてのその犠牲を要求する水の神もまた、私なのだ。(p.239)
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2006年11月04日

「神の発明」 神の誕生と死、そして流動を続けるスピリットの関係

中沢新一著 『神の発明 カイエ・ソバージュW』(講談社選書メチェ)

脳内で瞬く光のイメージが神を生み、その死後、残された精霊たちの残骸が資本主義経済を突き動かす原動力となるまでの過程をたどる。

cahier_sauvage_IV_01.jpg古代を生きた現生人類の祖先たちは、様々な儀礼を通して脳内で活動する「流動的知性」と向かい合い、そこで瞬く光の像を太陽の神、月の神、海中の神、火の神など、森羅万象の神々(スピリット)と捉え、その姿を自然界のあらゆる領域に投射した。ここでいう光の像とは、「内部閃光」という脳内に映し出される様々な光のイメージのことを指す。そのイメージは、瞑想や薬物によるトランス状態を通して、あるいは感覚遮断タンクの中に身を置くことによって「見る」ことが可能な内的な視覚現象だと考えることができる。我々の祖先は、神話的思考を駆使して脳の無意識の領域に迫り、さらにその内的な野生の領域と自然界とを結びつけることによって、スピリットと共にある柔らかな世界を維持しようと努めていたのだ。この時、人々は、生と死の領域がメビウスの帯のように滑らかなひと繋がりになっていると考えていた。

しかし、時代が進むと共に、この多神教的な神の捉え方は変化を強いられる。調和が保たれた世界の内外から猛烈な圧力が加えられることによって、世界の対称性が破れ、あの世とこの世が引き裂かれると同時に、森羅万象の神々の中でもひときわ大きな力を持つとされる高神(グレート・スピリット)が、スピリットの世界から飛び出し、さらなる高みへとのぼり詰めて、いわゆる一神教的な神(ゴッド)へと生まれ変わるのだ。またその一方では、引き裂かれたメビウスの帯を縫合するための来訪神が誕生する。このふたつのタイプの神は、例えば、南西諸島の「御嶽(うたき)」と「アカマタ・クロマタ」にその名残りを見出すことができる。あるいは、本土の「神道」と「祭り」の関係にもその面影が僅かに残されているという。対称性が破れた世界に生きる人々は、このふたつのタイプの神を崇めることによって、多神教的なスピリットの宇宙を維持しようと努めたのだ。しかしその後に、高神が他の神の存在を許さない唯一神に変貌を遂げると、来訪神をはじめとする神々(スピリット)は抑圧され、この世界の表層から大きく後退してしまう。

*****

本書で語られる現生人類の宗教観の変遷は、シリーズ第2作である『熊から王へ』(過去記事)の内容とリンクしている。『熊から王へ』は、超越的な力を自然界の奥底に据えることによって保たれていた社会の均衡が、あるきっかけで破綻し、その裂け目から王権と国家が現れるまでの過程を辿っていたのだが、本書では、その社会の構造の変化と並行して移り変わる人間の思考の動きに注目し、その仕組みを紐解こうとしている。

近代の始まりと共に神は死んだ。そしてこの世に残されたのは、精霊の残骸としての商品の集積体であり、乾いた国家の横暴である。しかし、神の死後も、人間が純粋な無神論者になることは不可能であると中沢氏はいう。現生人類の脳の構造がその原初の状態から変わらぬ限り、超越性の領域はその内部に存在し続けるというのだ。果たして人類は、この内的な「野生の領域」と出会い直すことによって、中沢氏のいう「あらゆる宗教のあとに出現するもの」を生み出すことができるだろうか。その見通しはどこまでも暗く感じられるが、その暗闇の先にあるはずの何かを見出すためには、闇と対峙し、目を凝らし続けるしかないのだろう。

(関連記事:「脳と創造性」 不確実性の海へ/2005/05/02)
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2006年09月16日

「愛と経済のロゴス」 覆い隠された贈与と資本主義経済

中沢新一著『愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュV』(講談社選書メチェ)

cahier_sauvage_III_1.jpg古代の柔らかな社会では、富とは、あくまでも人間の世界の外部、つまり自然界からもたらされるものだと考えられていた。食物や、あるいは人間の生命でさえも、人々には決して手の届かない闇の向こう側から贈られる、神の領域からの贈与であると認識されていたのだ。本書において「純粋贈与」と呼ばれるこの自然界からの贈り物は、人々や共同体の間で交わされる「贈与」によって絶え間なく社会の中を流動し、その「贈与」の連鎖がさらなる「純粋贈与」を誘発することによって社会の富を増殖させていくのだと考えられていた。このような贈与型の社会で暮らす人々は、贈り物に潜むただならぬ力(ポリネシアのマオリ族が”ハウ”と呼んでいる力)を感じとりながら、そこから富をすくい取り、共同体を、そして人々の命を維持しようとしていたのだ。

貨幣とは、この流動する富を固定化し、共同体の、あるいは個人の内部に蓄積するための、モノを超越したモノであると考えられる。王権による硬質な社会、つまり国家の誕生と共に、この冷たい富の表象は生み出されたのだ。炎の力によって滑らかな流動体となった金属を、再び冷やし、叩くという儀式を通してつくられる貨幣は、固定化される富のあり方そのものを表している。金属によって生み出された兵器が自然界と人間との関係を変えてしまったように(過去記事)、貨幣もまた、経済活動の表層から「贈与」を後退させながら、自然界を開発可能なモノの塊へとつくりかえてしまったのだ。

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マルクスは、資本主義社会の本質を「巨大な商品の集積によってつくられている社会」と説明した。つまり、貨幣を媒介とした交換の原理によってこの世界は覆い尽くされているというのだ。たしかに、貨幣は無限の増殖を続けながら、我々の生活の隅々にまで行き渡り、全てのモノを乾いた数値に置き換え、合理化し尽くしているようにも感じられる。

しかし、中沢氏はそれを否定する。例えば、クリスマスが迫ると、人々は忘れかけていた記憶を甦らせ、贈与へと向かう。そして、人々が生み出すこの贈与の連鎖が、交換の原理に基づく現代の経済を活性化させている。この現象は、普段は経済活動の表層からみえないところに隠されてしまっている「贈与」が、古くから伝わる冬の祭りを通して活性化されることにより引き起こされているのだと中沢氏はいう。つまり、経済は、「交換」、「贈与」、そして「純粋贈与」の三つの要素が三位一体となって成立する活動であるというのだ。さらに、経済を突き動かしているのはあくまでも人間の欲望であり、その欲望の根源が人間の心の奥底に潜む深い闇の部分に触れている限り、経済活動のすべてを合理的に解釈し、管理することは不可能であるとも指摘している。

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本書の内容は、先日の『二十一世紀の資本主義論』(過去記事)と重なるところも多いのだが、こちらは経済学の範疇を大きく逸脱して、貨幣をめぐる神話やラスコーの洞窟に描かれた壁画(過去記事)、そしてアメリカ先住民の贈与の記録、キリスト教の聖杯と化したコルヌコピアの観念、さらに、資本主義経済の三位一体と同一構造を持つキリスト教の精神などを紐解きながら、資本主義経済のあり方を、資本の増殖によって快楽を得ようとする人間の心も含めた全体性の運動として捉え直そうとしている。

限りない膨張によって「贈与」を覆い隠し、「純粋贈与」を「搾取」に置き換えようとしている「交換」の原理は、中沢氏がいうところの「経済の三位一体」のバランスを崩しながら、この世界を疲弊させてしまっているように思える。果たして我々は、この閉塞状況の先に「贈与」を取り戻し、自然界との調和を復活させるような新しい経済のあり方を見つけることができるだろうか。見通しはどこまでも暗いが、それでも目を凝らし続けるしかない。
posted by Ken-U at 19:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術人類学(中沢新一) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月22日

「熊から王へ」 熊のごとく振舞う王と国家の野蛮

中沢新一著『熊から王へ カイエ・ソバージュU』(講談社選書メチェ)

様々な神話が生み出された石器時代の昔、現生人類の祖先は自然との共生を維持するために熊との交流を深めた。神話が語るところによると、熊の毛皮をかぶれば人間は熊になることができたし、その逆に、熊がその毛皮を脱ぎ去れば人間になることができたという。自然界の王である熊は、人間の善き友であり、家族でもあったのだ。

cahier_sauvage_II.jpg人間が狩猟により獲得した動物の肉や毛皮は、親しい自然界からの贈与であると考えられた。だから、人間が狩りに臨む際には多くの掟を守らなければならなかったのだ。さらに、狩人たちは肉や皮を剥ぎ取った後の動物の骨を、傷ひとつ付けぬよう細心の注意を払いながら自然界へと返したのだった。また、熊の魂を返す際に盛大な儀式を執り行うこともあったという。そうすることで、自分たちの棲み処へと戻った動物の魂が、自然界における人間の評判を高めてくれるのだ。すると、動物たちは、気前よく自分の肉体を人間の前に差し出し続けてくれる。神話的な思考を駆使しながら、人間は自然界と緩やかに交わり、互いの均衡を保つことに努めた。

神話的な思考をする人々が暮らした集落の中心には首長がいたが、首長は超越的な権力を持たず、交渉と調停の人として振舞った。重要な意思決定は長老たちの話し合いによって決められ、戦争の際は首長とは別の人物がリーダーとなった。超越的な領域に身を投じ、そこから特殊な力を引き出すのはシャーマンの役割であった。しかし、シャーマンは集落の辺境に身を置き、首長に近づくことはなく、互いに距離を保っていた。武将やシャーマンと首長との距離、この距離を保つことが、集落内、そして集落と自然界との均衡を守るために重要視されたのだ。

しかし、その均衡が突き崩される時が到来する。そのきっかけとなったは、鉄の発明である。人間が鉄を生み出し、それを鋳ることで剣を発明したことによって、それまで守られてきた世界の均衡が崩されてしまったのだ。剣によって大きな力を与えられた人間は、自然界と人間界を切り裂いた。そして自らが熊のごとく振る舞い、武将とシャーマン、そして首長を結びつけることによって王となった。王は、集落を強大な国家へと変えた。

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2001年9月以降の講義を収める本書において、中沢氏は、荒唐無稽とも思える神話のエピソードを巧みに引用しながら、国家が根源的に抱える野蛮さを、人間の無意識の領域と繋げることによって炙り出そうとしている。「芸術人類学」(過去記事)という学問になる前の中沢氏の想いや決意は、このカイエ・ソバージュというシリーズの中に、まだ生々しいかたちを残しながら保存されているのだと思う。

5年前の911やそれに続く暴力の連鎖、そしてBSEなどの深刻な社会問題などによって剥き出しにされているこの世界の非対称を、会社復帰後のぼく自身はどう捉えるべきなのか、さらに想いを巡らさなければならない。
posted by Ken-U at 16:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 芸術人類学(中沢新一) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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